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vol.31
2015.1.18(sun)
1つの音符が、あるいは1つの音の掠れすらもが
道のむこうで誰かが振りかえった時のことを思い起こさせたり
人が何か言うのをためらう時に似ていたりしたら
どんな言葉がそれを説明できるというのだろう

 

 

vol.30
2015.1.6(tue)
自分の母はわりと詩的な人間なのではないかと思う。反対に父はあまり詩的な人間ではない気がする。
だがこれまでに何度か、父のことをとても詩的だと思ったことがある。
*
中学生の頃、たまというバンドの『鐘の歌』という曲が大好きで(今でも好きだが)繰り返し聴いていた。曲の終りに出てくる歌詞に特に魅かれていたのだが、それが一体どういう意味なのか、分かるようで分からないように感じていた。
こんな歌詞。
“都に春が来ればいつもさびしい子供がいなくなる
都に春が来ればいつもさびしい子供が行方不知だ
それはみんなさかな釣りに行っちゃったのだから
さがさないで さがさないでよ”
ある日父に
「この歌詞どういう意味だと思う?」
と訊くと父は
「冬はさびしいんだよ」
と言った。
父は普段表に出さないだけで、実は凄く詩的な人間なのではないか、とこの時思った気がする。
この話をしたのがどんな季節だったのかは忘れてしまったけど、今日の東京の正午頃の空気はとても気持ち良くてこのことを思い出した。
——
新しい年ということでちょっと爽やかっぽいことを書いてみました。気に喰わない方が居たらすいません。
今年もこの日記は地道に続けていきたいと思っているので、良かったらたまに覗いてみてください。
1/31のイベントもなにとぞヨロシクお願いします。

 

@nagoya-jo
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vol.29
2014.12.31(wed)
彩りは静けさのなかにある
君は秋波のなかにいる
夕闇がやがて訪れたら
すべて美しくみえるだろう
歌を歌える時間の長さ
誰もいない場所に昔いた誰か
光は必ずこの道を通る
ボタンはずっとここにある
あなたが眠りに就く度に
潜水艦は夜の海に潜る
ちがう大陸を歩いてく旅で
次の空港へ向かう朝
波は力を組み立てているのか
力は波を励ましているのか
誰も起きてこない街を走る運転手の車は走り出す 

 

———
*今年も大変お世話になりました。 やはりずっと作ってきたアルバムを発表できたことが一番大きかった。来年もマイペースに活動していけたらと思うので、よろしくお願いします。名古屋ツアーの話、新しいギターを買った話、遂に生まれて初めてレコードを買ってしまった話、図書館にCDが所蔵されて嬉しかった話など、ここに書きたいことが色々あるのですが、新年が迫ってきているのでまた後日書きたいと思います。
よいお年を。

 

 

vol.28
2014.12.16(tue)
この日記を6月に書き始めた時、最初の記事(このページの一番下)で、自分が年に数回訪れる東北の某県の某海岸にある発電所の写真を載せたのですが、この前の週末またその県に行ってきました。
発電所とは別に、その県を訪れた時になるべく行くようにしているお気に入りのスポットがあって、それが以下の映像の海岸。冬に訪れたのは今回が初めてだったのだけど、辺りいちめん雪で冬の波は真っ白で分厚く、とても綺麗だった。携帯で良い感じの映像が撮れた気がしたので、その日の夜に東京に帰ってきてしゃしくえでスタジオ練習に入ったときの即興の音源と合わせて、ショートフィルムぽくしてみました。
この空港近くの海岸が自分はとても好きで、他の場所では感じたことのない独特の殺伐とした感じ、剥き出しの海岸があるだけの「何もない」感じ、それなのに寂しくはないような感じ、をいつも味わってから飛行機で帰る。
でもこの「感じ」は、全く派手なものではなく、多くの人が自分のように感動するかどうかは微妙だし、自分もあまり色んな人に教えたくはなく、むしろ自分の心の中だけに留めておきたい類のものだと思う、と言いつつここに書いている訳だが、誰かがこうやって紹介したところで、興味を持つ人は殆どいないような場所だろうな、などと思う、。
でも自分はこの海岸や、発電所や、この近くの土地に、そんな言葉にしがたい掛け替えのない特別な空気、をずっと感じていて、いつかこういう人間になりたいとかこういう音楽を作ってみたいというようなことを、いつもかなりはっきりと思う。
で、この海岸は車道から細い脇道に入って少し行ったところにあるのだけど、今回、海岸まで辿り着いたは良いが、帰りにまた車道に出る時に、細い脇道の途中で車が砂に埋まって全く動かなくなってしまった。今まで車を運転していてこのような事態に陥ったことは無かったし、車(レンタカー)についていた小さいスコップでいくら砂を掻き出しても全く動く気配がないので、本当に焦った。結局、レンタカー屋さんの方がすぐに駆け付けてくれて、埋まった車をひとまず放置して空港まで送ってくれて、間一髪、離陸15分前で帰りの飛行機に搭乗できたのだけど、。
先に書いたように、冬にこの海岸を訪れたのは初めてだったのだけど、今まで車が埋まるような気配は全く感じたことがなかった。レンタカー屋さんの方に教わって分かったのは、夏期は海水浴場としても開放しているため、道が整備され砂が取り除かれているが、冬期は放置されているので砂が深く降り積もっているということ。雪道走行に慣れてきて、調子に乗って細い脇道をグイグイ進んだのがバカだった。すいません、。
そして、東京に帰ってきてから思い出されたのは、その海岸が、安部公房の『砂の女』の着想のきっかけになった場所だということ。東北はやはり自分にとって特別な土地だと思う。よかったら少し下にある、vol.24の「イカル」の記事も併せて読んでみてください。

 

 

vol.27
2014.12.10(wed)
漫画『スラムダンク』を最近読み返しました(「名作」といわれるような作品なので、以下の雑感は、読む人が作品の内容を知っていることを前提に書いたものです。なので読んだことのない人は色々とごめんなさい)。
—–
『スラムダンク』は小学校低学年の頃から大好きでこれまでに何度も読み返してきたのだが、最近はあまり読んでいなかった。正確には分からないけど、今回たぶん5〜6年ぶりに読み返した。やはり素晴らしい作品だという感想は変わらないのだけど、多少自分が成長したことによって、今回読み返して色々と新しい発見があったような気がする。特に大したものではないですけど以下に。
—–
・主人公は誰かというと間違いなく桜木花道なのだが、スラムダンクというストーリーを最初から最後まで読んで、これは「誰の物語」なのか=誰の目線で語られている話なのか、ということを改めて考えると、ゴリ(赤木)の物語なのではないかと思った。
桜木は基本的に、バスケ部の事情(三井・木暮ら先輩の遍歴とか)や、インターハイというものがどのような意義を持っているのか(山王や海王がどれだけの強敵か、魚住や赤木がどれほどの思いで臨んでいるか)、などということをあまり深くは知らない(物語が進むにつれ何となく知っていくけど)。それらを全て把握しているのはゴリ。(安西先生もそうだと言えるのだけど、彼はその物語を一歩引いたところから見守っているので)
湘北バスケ部における桜木の登場は間違いなく「この物語」のターニングポイントだが、それも含めて何で『スラムダンク』を読んでこんなに感動するのかといえば、それは読み手が「ゴリの視点」で物語の中に入り込んでいるからなのではないか、逆にいえば、ゴリの視点に立たなければ『スラムダンク』という物語の中で起こる出来事の全てを見渡すことはできないだろう、と今回読んで思った。というか、昔から自分はスラムダンクを読むとゴリのエピソードの部分で一番グッと来ていたのだけれど、今回そのことを上記のような形で改めて認識した次第。
・上記と重なる部分もあるのだけど、これまで自分は、桜木というキャラクターの姿に描かれている「力」あるいは「才能」といったものが一体何なのか、今ひとつ掴めずにいた。常識はずれの行動で周りを巻き込みながらもムードを作っていく、人一倍成長するのが早い、というようないわば「少年漫画の典型的な主人公」的な認識は以前から持っていたが、スラムダンクの場合、それだけだと何故かあまり腑に落ちないような気がなんとなくしていた。
で、今回読んでみて、井上雄彦氏が描きたかったのは、荒削りでも黒人的なバネを持っている希有な日本人、というような桜木像だったのではないかと気付いた。特に物語の後半になるにつれて、周囲が驚愕するのは桜木の「2回ジャンプするのが異様に早い」とか「滞空時間が長い」といった驚異的なフィジカル。そんな選手がコートで躍動する様、チームのムードを牽引していく様子、というのはバスケというスポーツに触れる時の醍醐味の1つでもあると思うのだが、そういった類のカリスマ性や興奮というものを、作者は桜木を通して表現していたのではないか。そこには、単なる少年漫画の非現実的な主人公像だけではなく、バスケというスポーツが持つマジカルな熱狂に対する井上氏のリアリズムも描かれているのではないか、と…そのようにして「黒人的」な異様なフィジカルを桜木は次々と見せつけている、ということを意識して読んでいくと、桜木が主人公たる所以が、以前よりもハッキリと分かるようになった気がする。
でももしかすると、『スラムダンク』を読んでいる人は、そんなことはとっくに承知しているのだろうか。自分は今回初めて、「桜木はバネを持った人物なんだ」ということを実感を伴って分かった気がする。自分自身が以前よりも具体的な理由から「黒人音楽」というものに深く憧れるようになったからかもしれないな、などと思った。
・安西先生の「白髪鬼」時代のエピソードが一番切ないと思った。これを20代で描いたということが本当に凄いと思った。
・「名作」といわれるようなドラマチックな長編漫画(コミックスで20巻くらいを超えているもの?)には、必ずどこかで、決定的に絵が変わる(上手くなる、出来上がる)ポイントがあると以前から思っていて、スラムダンクにおけるそれは県大会決勝リーグ最後の陵南戦だと思った。それ以降、物語の終盤にかけての場面、絵の筆致には胸に迫るものが本当にたくさんある。
(ところで、有名な話かもしれないけれど、ちばてつや先生の作品は序盤はホンワカしたタッチで始まって、物語が進むにつれ激しい劇画調になっていくものが多い…で、新しい作品になるとまた元のタッチに戻っている。)
ちなみに今回読んだ中で、一番「絵、うま〜」と思ったのは、以下の高頭力の表情。
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…以上です。人に読んでもらう日記というよりは、自分のための備忘録的な性質がいつも以上に強いかも知れませんが、それでも読んでくだすった方がいたらありがとうございました、。

 

 

 

vol.26
2014.12.5(fri)
12月…
たびたび思い出すのだが、高校2年の夏休み、安部公房と三島由紀夫に興味をもって、いくつかの著作を文庫本で読んだ。
なぜかこの時、特に意識はしていないのに、人が書いた文章を一字一句吟味して、そこに誤字脱字や文法的に不自然な点が無いか(助詞や句読点に淀みはないか、時制や主語述語間に捻れは無いか、等々、小さなものから大きなものまで。)、あるいは前後の文章の論理的な繋がりにおかしな点は無いか、といったことを逐一確認しながら読むクセが自分の中に生まれた。流石に安部や三島の文章にはそう感じる点は殆ど無かったが…。現在このクセは以前よりは薄くなっているが、未だに本を読むのが遅い原因の1つではある。でもそれ以降、自分がそういった類のミスのある文章を書くことはかなり減ったと思う。もちろん、だからといって上手い文章を書けるようになったわけではないし、ミスのない文章が良い文章であるといいたいわけでも、ミスのある文章が悪い文章であるといいたいわけでもない。
直前の一文は当たり前すぎて内容が無いかもしれない。一番書きたかったのは、高校2年の夏休み、どうして自分がそういう風な視点を常態的に持ちながら人の文章を読むようになったのか、そのきっかけが自分でも未だによく判らないと云う事。それが悪いことだとも良いことだとも思っていないが。

 

 

vol.25
2014.11.27(thu)
初めて柿に顔を描いてみたら皮がヌルツルしていてインクのノリがあまり良くなく、上手く描けなかった。
5年ほど前、みかんを食べる前に必ず顔を描いていた時期があったのだが、みかんはかなり描き易い。
今まで柿がそれほど好きではなかったのですが、今年もらった柿はとても美味しかったです。これも。
若者の「柿離れ」が進んでいる、と聞くが、しゃしくえのあとの2人は好きらしいです。
kaki

 

 


vol.24

2014.11.19(wed)
少し前に母が海沿いの実家に帰った際、ある朝2階の部屋で起きて窓を開けると、屋根の上で鳥が一羽死んでいたという。前の日には何も無かったので、死んですぐだと考えられる。死体には外傷などは特に見当たらなかったという。歳をとった鳥、という風にも見えなかったらしい。見たことのない、名前も知らない、割りと大きな鳥で、どうしようかと少し悩んだ末、家の庭に穴を掘って埋めた。その数日後、地図を見るのが好きな母は、実家の近くで、同じ県の「とある島」の地図を買う。するとそこには「この島に住んでいる鳥」のイラストがいくつか載っていて、その真ん中には屋根の上で死んでいた鳥の姿があったという。そこで初めて、それが “イカル” という名前の鳥だったということを知る。母は「この鳥に会うためにここでこの地図を買ったんだなぁ」と思ったという。
——
昨日、母と久しぶりに中華料理屋に行き、料理が運ばれてくるのを待つ間にこの話を聞き、持っていた携帯電話でイカルの写真を調べると、ふっくらとした、すごく可愛くて美しい鳥だった。こんな鮮やかなクチバシの鳥が日本にいるんだ、と思った。
母が鳥の死体を持ち上げた時、たとえばその腹部に赤い血が滲んでいたとしたら、母はそれを見て「ああ、この怪我が原因でこの鳥は死んだんだな」と思っただろう。そして同じように少し悩んだあと鳥を庭に埋めたはずだ。
人間は、怪我をした動物を見て、その傷の大きさや場所を観察して、どれほど痛いかとか、もうだめかどうかとか、そういったことを知ることがある。そのどこが医師と異なるというのだろう。
人間の手で庭にイカルが埋められている家というのはきっとなかなか珍しいだろうと思う。
——
濃密さ、というものはきっと、世界の全ての都市、街、村にあるのではないかと思う。
母の実家を通じて、日本の東北という地の濃密さは、低く重く、砂のように乾いた感触のものであると、自分は子どもの頃から感じている。
もちろん他のあらゆる地の濃密さと同じように美しく神秘的で。

 

 

vol.23
2014.11.18(tue)
現地・現時集合でOKです。というか、現地・現時集合しかない。
しかも集合した後は即解散、後は即自由。
現地に現時に集合してください、後は自由です。
幸せは生まれた瞬間から目の前にあるからこそ誰も気付かない。
掠れた音符は掴むことができない。
掴んだ時にはそれはもう彫刻になっている。
そしてそれは彫刻としても価値を持たない。
現地で現時に徒党を組み、幸せ目指してヤイサホー。
誰もが山を降り、河を下り、海を目にする。
海までは少し歩けば行ける。
よく晴れて乾いた美しい日の、誰もいない岸。
昔現地で現時に集合し、徒党を組んだことを思い出す。
大体それくらい。あとは自由。

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vol.22
2014.11.17(mon)
今年からクリスマスのことをさん付けで呼ぶことにした
クリスマスさん、と…

 

 

vol.21
2014.11.11(tue)
たぶん今日はポッキーの日…
小学校の時、ポッキーの日が近づくと同級生がやけに興奮していたことが何度かあった気がするが、当日に何かが起こったというような記憶は特に無い。なのでやけに印象に残っており、毎年11/11という日付を見ると、ポッキーの日だ、とまず思う。
1〜2年に1回、訳あって『少年ジャンプ』を読むのですが、『こち亀』が平然と続いていることにいつも少し恐怖に似た感覚をおぼえる…ストーリー展開も、2000年頃からは絵柄も、殆ど変わっていない気がする(後者はアトリエで制作されてるからなのでしょうか?)。他の漫画は色々と大きく入れ替わったり変化したりしているのに『こち亀』だけが不変で、そこだけ時が止まっているような異次元ぽさを感じる、、。
今週久しぶりに読んだ『こち亀』、冒頭の導入シーンでの会話
中川「これから伸びるのは日本の農業だと思います」
両津「アメリカがすごいんじゃないのか」
中川「エンターテイメントやハイテクも有名ですが、実はアメリカは農業大国なんです。農作業機は世界でトップクラスですから。日本の農業で大国に勝つためにはロボットです!」
両津「えっロボット」
中川「農業の高齢化を救うのはロボットとハイテクです」
両津「まさにその通り」
この会話の流れもどこかチグハグでおかしい…いわゆる「誤信念課題」が達成できていないような謎の歪さを感じる気がする…

 

vol.20
2014.11.8(sat)
寒くなってきた…
し、TVのレコーダーが壊れて黒服物語もちゃんと録画できていない
し、今月の残り3週間をあと7千円で過ごさなければならない
しゃしくえのCD発売記念ライヴは 2015/1/31 (sat) です。
CDは 2014/7/20 (sun) にリリースされ、現在 色々なところで入手できます。

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vol.19
2014.11.2(sun)
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11月…
昨年末頃から、数人の若い男女がシェアハウス生活をして恋愛したりする『テラスハウス』という番組を毎週録画して楽しみに観ていたのだが、9月末で終わってしまい、寂しいな〜と思っていたら最近『黒服物語』というキャバクラを舞台にしたドラマが始まり、面白そうだなと思って録画してみたら面白かったので、引き続き録画して観ていこうと思っている。連続ドラマを観るのは、小学校の時『古畑任三郎』や『ショムニ』にハマっていた頃以来なので、10年ぶりくらい。自分はテラスハウスを観て何となく何かしらのエネルギーをもらっている部分があったので、テラスハウスが終了することによって絶たれたその供給源を『黒服物語』で繋いでいる感じがあるかも知れない。
どちらの番組も、日本の(アジアの?)たくさんの人が観ていると思う。純粋に「面白いなあ」とか「この役者さんカッコイイなあ(キレイだなあ)」と思って観ている人も居る一方で、番組中のベタな表現や展開だったり、若者の欲望などをあけすけに描いている様だったりを、鼻で笑うようないささかバカにした気持ちで観ている人も多いような気がする。そして番組を作っている人たちは、そういう多様な需要も見越した上で、そのように作っているのだろうなと思う。スゴいなーと思う。『テラスハウス』に関しては、純粋に盛り上がる人・バカにする人ともに巻き込む形でツイッターやインスタグラムなどのSNSを巧く連携的に利用していて、その点も非常に現代的だと思った。などと書くと、俺は俯瞰した視点からこれらの番組を観ている、と言いたげに聞こえてしまうと思いますが、そうではなく、自分も、純粋に楽しむとともに、えぇ〜これはないっしょ〜みたいに軽くバカにもしつつ視聴していると思う、。
ただなんというか…それだけでなく、自分はこれらの番組を観て、今までにあまり感じたことのなかった何とも言えない気分を味わっている(今までに感じたことがない、のは、番組が画期的で新しいから、ではなく、自分の内面的な変化によるものだと思う)。それこそが上記した「エネルギー」みたいなものなのだが、。自分の普段の生活とは遠い、華やかな人々の行き交う世界の雰囲気が描かれた番組、でもその中の人たちも自分と同じ人間で、衣食住を必要として強かに生きている、、という感じがしてくるというか…そしてそういう番組を「こうすれば色んな人が観てくれるだろう」と思って作っている人がいて、そしてそれを、「良いなあ、綺麗だなあ」と思ったり、半分バカにしたりしながら観る人がいて、自分もその中の一人で…みたいなことを感じて、自分も頑張らなくちゃ、というような何とも言えない気分になる、というような感じ…この辺のことはまだあまりまとまっていないので上手く言葉にできないのですが、。
そういったきっかけから今は『黒服物語』を楽しみに観ている。
ただ1つ気になることがあって、劇中で「世の中の多くの人々は『昼の仕事』に対し『夜の仕事』であるキャバクラは地位の低い仕事だと思っているが、そんなことはないんだ」というようなメッセージが度々現れる。これはその通りだと思うのだが、その一方で、店を辞めて風俗に移ろうとするキャバ嬢を止めて、「そっちにだけは行っちゃダメだ、そっちはあなたの世界じゃない」みたいに言ってしまい、その上それがあたかも正論であるかのような感動的なムードを流してしまうところは極めて愚鈍だと思った。
下図は全く関係なく、今週思いがけず遭遇した2体の銅像。

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vol.18
2014.10.28(tue)
スゴく美しいのに悲しい感じもする音楽というものがあると思うのですが、この曲もそんな感じに聴こえて、”Gente Humilde”というタイトルはどういう意味だろうと思って調べてみたらスペイン語で”Poor People”という意味だった。
上演芸術に関する歴史学や美学をめぐるある種の言葉の1つに、「作曲家や脚本家(=作者)は演奏者や俳優(=演者)よりもエラい」みたいなものがある(あくまで「ある種の言葉の1つ」だけど)。何となくそんな気がする時もあるけど、こういった演奏を聴くと、全くもって一面的な言葉にすぎない、と思う。バーデン・パウエルの弾く音の一つ一つこそが生まれたての音楽そのものであり、そして「音楽の中にだけ生まれうる世界」への他の何よりも堅牢な媒介に思えてくる。
中学生の頃から思っているけど、ギターが巧い人というのは、演奏している姿を見ると、楽器がスゴく小さく軽そうに、そして押さえている弦がとても柔らかそうに見える。

 

vol.17
2014.10.24(fri)
夕方、家の近くをUFOが飛んでた。(ほんとは保険会社の飛行船)
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夜、近所の川沿いにランニングしに行って準備体操してたら生々しいキリギリスが居た。
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先週は家の玄関にでっかいカマキリが居て、外に逃がした。
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どれも見られて良かった。
以上。
いつも記事が長くなりがちなので今日はこれでオワリ。
バーデン・パウエルはギターうますぎ。

 

vol.16
2014.10.15(wed)
涼しくなり蚊もいなくなって来たので、昨夜25時頃、3ヶ月ぶりくらいに近所の大きな公園にギターを弾きに行った。しかし涼しいのを通り越してもう若干寒い。4年ほど前から、主に深夜、ギターを担いで殆ど誰もいないこの公園にしばしば忍び込んでいる。この公園でギターを弾くのは楽しいし集中できて良いのだが、夏は蚊、冬は寒さのために来られないので、ベストシーズンは4〜6月/9月後半〜11月くらい、と割りと限られている。
今年の4月頃、何度か平日の夕方に時間があってこの公園にギターを弾きに来た時、近くの高校に通う生徒のカップルがベンチに座っているところに2回ほど出くわした。高1か高2くらい?で2人とも素朴な感じでカワイイ。付き合い始めたばかりと思われる。男の子が手を繋ぎたがってるんだけど女の子は嫌がる、でも人が居ない時にたまに繋ぐ、何も喋らないで同じ方向の空中を見ながらずっと座ってるだけ、という感じで長い時間を一緒に過ごしていて、最高だった。でも自分の人生の中ではもうこういう瞬間は無いだろうな、と思うと少し寂しかったし羨ましいなあと思った。と同時に自分自身もまだまだ若く、自分よりも年配の人が「羨ましい」と思うような時間や気持ちの流れをいま過ごすことができているのだろうから、それを大切にしたいとも思った。(でも、この高校生のカップル、4月頃はウブな感じだったけどまだ付き合ってるとしたら今ごろはもっと発展した関係に成っているかもしれない…もう公園であの姿を見られないとしたら少し違う意味で寂しい、。)
何が言いたいかというと、こういったブログとか、人に読んでもらう文章の中にその時の自分の思考や感情を書く時は、なるべく後で読み返した時に恥ずかしくならないように書こうと常々心がけているが、大体は後から読むと恥ずかしい、ということ。
今年の5月頃この公園に通っていた時は、「ジャスミン」という曲が出来た。今年作った中では気に入っている1曲。ライヴでは大福さんが歌っている。
下に載せたのは昨夜公園で撮った写真。ギターは1989年製のエピフォンのカジノ。ライヴではたまにしか使っていないが、アンプ無しでも大きな音が出るし弾きやすいので、練習ではいつも使っているエレキギター。
今週の土曜日10/18は、渋谷のラストワルツにて、しゃしくえのライヴがあります。
自身のシンガーソングライター活動に集中したい、というような理由で1年半ほど脱退していたドラマーの山本眞奈美が一時的に復帰、で久しぶりの4人編成でお送りします。イベントは河内伴理さんのやっているバンド「てあしくちびる」の企画。伴理さんと一緒にやるのは3年ぶりです。ぜひ遊びにきてください。

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vol.15
2014.9.24(wed)
「タカ派」と「ハト派」という言葉があって、それを自分がいつ初めて知ったのかは憶えていないが、たぶん小学生の頃だったと思う。以来、自分にとってなんとなく意味が分かるような分からないような言葉だったのだが、最近だんだんと意味の本質のようなものが掴めてきて、言葉を血肉化できてきた気がする。
この言葉はキューバ危機の中で生まれたかなり新しい言葉(ネットで簡単に調べただけなので真偽は不明)らしい。政治的な志向を巡る話題の中で使われることが多い。でもこの言葉の本質は、政治的な志向よりももっと以前の、人間としての志向、というかもっと言うと「動物としての好み」のようなものをも表現している点にあると思う(もちろん、辞書をひくとそういう意味も載っている)。
1.完全に真っ二つに分かれる、というわけではないけど、人には鷹タイプと鳩タイプがいる。
2.それは「どこか」で分かれる。
3.そしてその2つの言葉を使って、大雑把にとはいえ割としっくりくる形で「政治」も考えることができてしまう。
という点がこの言葉のポイントだと思う。最近血肉化できてきた気がするのは2の部分。
あと「血肉化」という言葉を先週まで「ちにくか」と読んでいた。
”漢字の正しい読み方”はなるべくちゃんと知っていた方が良いと思うけれど、でも「ちにくか」の方が、音だけ聴いた時は少しだけ判り易い気がする。

 

 

vol.14
2014.9.10(wed)
8/31は服部峻氏の初リーダーバンドのライヴ@大阪にベースとギターで参加。
7人編成のバンドのうち2人はライヴ当日に初めて峻氏に会うという荒業だったが、何とか何らかの形にはなったと思うので良かった。この日だけのために結成した特別バンドも、精鋭メンバーの個性が出ていて面白かったと思う。
アルバム『UNBORN』の曲も4曲、バンドアレンジで演奏。さすがにアルバムのあの巨大なスケールは今回は再現できず、簡素な編曲だったが、それでも峻氏のアレンジは素晴らしかったと思う。のでまたそのうち何か機会があれば良いなと思う。服部峻の作品は、常に現実を超克していくところに屹立するものだが、それを生楽器で演奏する(もちろん聴く方でも良い)、ということもまた、自分にとっては夢の1つである。
—–
自分は今回初めてちゃんと大阪を訪れたのだが、結局4日も滞在し、峻氏と一緒に自転車で深夜の大阪を巡ったり、色んな人に会ったり色んな生活を垣間見たり、たくさん想い出ができた。一言でいえば大阪は濃く分厚い都市だと思った。
帰ってきたあと久しぶりに渋谷に行ったら、なんだかサランラップみたいにペラペラな街に見えて逆に疲れたし淋しくなった。
でも結局は「自分の町」は東京(の西部)だとも思う。大阪また行きたい。
—–
ところで、僕が初めて自分でチケットを買って「ライヴ」というものを観に行ったのは、2004年9月10日、マンダラ2の滝本晃司さんのライヴだった。当時中1。その丁度一ヶ月後、10月10日にも同じ場所に滝本さんのライヴを観に行ったのだけど、その日はオープニングアクトがSAKANAだった(そこで初めてSAKANAを知った)。それが自分のライヴ原体験だったからかもしれないけど、滝本さんとSAKANAはずっと自分が尊敬するアーティストのツートップとして心の師匠的に君臨している気がする。という訳で、初めてライヴというものを観てから今日でちょうど10周年なので、記念として今までに聴いたCDベスト20を以下に挙げてみたい。(同率一位みたいな感じで、数字は順位ではないです。初めてライヴを観てから10年、なのに、ベストライヴじゃなくてベストCDだったり、ベスト10じゃなくてベスト20だったり、という点はあまり気にしないでください。あと、あまり厳密には考えていないので、のちのち変わる可能性あり)
1. カタチ / 滝本晃司 (2003)
2. 夏 / SAKANA (1991)
3. Tail Songs / echo-U-nite (1998)
4. Waltz for Debby / Bill Evans Trio (1961)
5. AVANTI! / Giovanni Mirabassi (2001)
6. WORD OF MOUTH / Jaco Pastorius (1981)
7. BLOW UP / 鈴木勲 (1973)
8. The Road To You / Pat Metheny Group (1991)
9. Cookin’ / Miles Davis Quintet (1956)
10. Ciruelo / Mono Fontana (1998)
11. SERENADE / Toninho Horta (1997)
12. THIRD / The Soft Machine (1970)
13. Eclectic / 小沢健二 (2002)
14. Jr. / Tokyo No.1 Soul set (1996)
15. 想像力の独立と自己の狂気に対する人権宣言Ⅲ / micromicrophone (2006)
16. Ayacollepian / Ayacollette (2005)
17. A LONG VACATION / 大瀧詠一 (1981)
18. 4 to 3 / 小川美潮 (1991)
19. COZY / 山下達郎 (1998)
20. LOVE IS HERE / 矢野顕子 (1993)
21. UNBORN / 服部峻 Takashi HATTORI (2013)
何となく自分でも予想してはいたけど、名盤といわれるような作品が多くてあまり面白い選出ではないかも…あと上記のうち3分の2以上が高校生までに聴いたCDなので、やはりその頃までに形成された感受性が、(これからも)自分を強く支配しているのだろうと思う。そして全て20世紀と21世紀の音楽。自分がどれだけ狭い範囲の音楽しか好めていないかということが判るかも。クラシック音楽にも好きな曲が色々あるのだが、アルバムが思い付かなかった。あとロック系の作品が意外に殆ど無かったんだけど、自分の場合「好きなアルバム」というと、部屋で流していてもあまり気にすることなく同時に何か作業をすることができて、かつよく聴いてみるとスゴい、みたいな基準があるのかもしれない。上記のアルバムの多くがそういう性質を持ったアルバムだと思う。自分にとって所謂ロックっぽい音楽は、聴きながら何か作業をするのは難しい傾向にある、という意味でもあります。(もちろん好きとか嫌いとかいう話ではなく)
などといっても自分はまだまだ若いのでもっとがんばりたい。
—–
あと渋谷のタワーレコード6階(ジャズのフロア)、ニューエイジ音楽のコーナーの片隅にて、しゃしくえの1stアルバム『キラリティ』をポップ展開 & 試聴できるようにして頂いているので、良かったら覗いてみてください。今週いっぱいくらいかな…やはり諸行無常ですからね。
小学生の頃からCDを買いに行っているタワーレコード。昔の吉祥寺店が好きだった。中学生の頃よく行った。

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峻氏が撮ってくれた自分@深夜の大阪

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 楽しかったなー大阪。

 

 

 

 

diary