2020

vol. 110
2020.6.24 (wed)

2020/6/23 11:31:15 書き始め


このところ、Skypeを使ったオンライン会議に週1〜2回のペースで参加している。もう10回くらいやっているのだけど、どうにも慣れない。正確に言うと、好きになれない。主な理由はいくつかある。1つは分かりやすくて、喋った言葉が相手に届くまでの1秒前後のタイムラグ。国際電話とかテレビの中継リポートみたいなものといえば確かにそうなんだけど、PCの画面越しにそれが生じると、DAWソフトで録音を行う際のレイテンシのように感じられてしまって、自分はつい気になってしまう。

2つめはもう少し抽象的なことで、かつ今書いたタイムラグ / レイテンシの話と繋がっていることでもあるのだけど、オンラインで互いの顔を見ながら3人以上で会話をしていると、1人の話者に対してその他の参加者が発する「注目感」のようなものが、実際に会って話す時よりも強調されるように感じる。その要因の1つは先ほど書いたレイテンシで、対面の会話よりもリズムがぎこちないぶん、参加者は相手の言葉を正確に聴き取ろうとするのではないかと思う。あるいは、例えば同時に2人が喋り始めてしまった場合の処理(「あ、すいません、そちらからどうぞ」みたいなやつ)などの、対面では難なくこなしている会話の交通整理もレイテンシがあると煩雑さを増すので、それを回避するために参加者は発話に対し慎重になる気がする。加えて、複数人が同時にしゃべった場合に、対面の空間の場合とは違って、声は1箇所のスピーカーにまとめられてしまい聴き分けづらくなる、といった問題も関わっているだろう。こうした環境下においては、「単独の語り」と「それを丁寧に聴く他の参加者」という構図が、対面の会話よりも明瞭になりやすいように感じる。

逆に言うと、対面の会話において人々は、喋り始めるタイミングが重なってしまうことや複数人が同時多発的に言葉を発しながら議論が進んでいくこと、相手の話を遮って発言することなどをもっと「恐れていない」と思う。考え方によってはオンラインの会話の方が丁寧さが生まれている、と見ることもできるかもしれないが、それによって生まれているぎこちなさや不便さの方が前景化されやすいように、自分には感じられる。あと、PCの向こうの参加者たちは実際に「画面を凝視する」という形でこちら側を見ているわけで、そのことを意識すると僕は文字通りの「注目感」を連想してしまう、という個人的な心理的要因もある。

そういった「注目感」の中で、音声と映像の両方が動き続ける。声の調子だけではなく表情や身振りでも何かを伝えなければと思ったりもするのだが、それもやはりカメラを通した状態なので普段より大げさにアウトプットしなければいけない(モゴモゴしゃべる自分の場合、特に)ので、疲れる。しかもそれをやる場所が家なので、肉体と精神は外にいる時より若干タルんでいるけど、表面的には対人用にシャキッとしないといけない、という状況の齟齬が拍車をかける。音声のみの電話、対話の会話、そしてビデオ会議の3つを比べた場合、ビデオ会議が一番「取り繕ってる感」が大きいのではないかと自分は思う。

そんなこんなで、何となく不自然に振る舞う必要があり(自分が勝手にそう感じているだけかもしれないが)、その不本意な状況を普段よりも注目されるビデオ会議が苦手なのだ。ただ、これらは新しく与えられた環境に適応しようとする人間の本能というか感覚によってもたらされているものだと思うし、自分も他の人たちも、ほぼ無意識のうちにそういった微細な作法を場面に応じて即興的に繰り出しているように感じられて、そこは少し興味深いと思う。かと言って、やはり極力参加したくはないが。それと、ここまで書いたようなことの多くはあくまで2020年現在のPC周辺デバイスの性能に基づくもので、きっとこれから色々変わっていくんだろうな、と思う。

 


Amazonプライムに無料体験で登録して、1ヶ月の間に50本くらい映画を観た。普段は音楽を聴くために使っているモニタースピーカーで映画の音を聴くと、ダイナミックレンジの広さに驚かされる。ほとんどの映画において、特にホラー映画において「音」が一番力を発揮するのは、鑑賞者をビックリさせる瞬間なのではないかと思う。映画の音声の豊かなダイナミックレンジはそのために、つまり「客をビックリさせる」ために存在していると思う。その一方、今回自分が観た中で「音が印象に残っている映画」というと、『家族ゲーム』『沈黙』(スコセッシ)など、音楽らしい音楽がほとんど出てこない作品だった。しかしこれらの作品においては、劇中の些細な音(砂利を踏む音だったり、食事の際の咀嚼音だったり)が、鑑賞者を作品世界の中にグッと引き込むための役割を効果的に果たしているように感じられた。逆に、映像と物語の感情を増幅させることが目的なんだろうな、と思われるドラマティックな音楽を映画の中で聴いた場合、単純に「良い曲だな」と思うことはあっても、映像とのコンビネーションによって唯一無二の魅力が増しているように感じられるパターンはほとんどなかった。かといって、それが映画に合ってない、情緒的な音楽を映画に取り入れることは下品だ、とかそういったことを言いたいわけではなく、単に今の自分は「映像と音楽のリンクにあまり魅力を感じられない」というモードにいるということなのだろうと思う。

音とは関係ないけれど、映画を観ていて、あるいは小説を読んだりしていて、そこに流れている物語に感情移入できるというのは、人間にとってどういう心理の働きなのだろう。同じ映画を何回か観て、結末を知っていたとしても、毎回同じようにドキドキしたり泣いてしまったりするのはなぜだろう、ということは以前からよく思っている。

 


合唱によってたくさんの人の声が混ざり合うと、一人一人の声の個性が消えて、どこかで聴いたことのあるような「合唱っぽい声」として聴こえるようになる。あるいは、声のピッチを上げたり下げたりすると、だいたい誰でも同じような声になる(例:ニュース番組で流れる匿名の証言者の声)。この2つは似たような現象、あるいは何か共通の要素を持つ現象なのだろうか?

と、ここまで書いて、「誰が聞いても分かるような強烈な特徴の歌声の持ち主ってほとんどいないよな」ということと「上記2例の後者、つまりニュース番組で流れるピッチを変えた匿名の声の違いを聴き分けられる耳を持ってる人っているんだろうか」という2点の新たな疑問が頭をよぎった。

 


小学校の時それなりに仲が良かったけれど卒業後は全く連絡をとっていなかった同級生からFacebookの友達申請が来て、少し話が盛り上がった。数年前に生まれたという子どもの写真がとてもかわいくて、「かわいいね!」と言ったら「奥さんがかわいくて助かったよ」と言っていた。こうやって書くだけでは上手く伝えられないと思うけれど、彼のその言葉には、驚くくらい少しも外連味がなかった。それはたとえば、かわいい奥さんを自慢したり、自分の見た目を自虐的に話題にするような有りがちなものでは全くなかった。その言葉は「きっと本当なんだろうな」と自然に思わせてくれるもので、彼が幸せだということを過不足なく僕に伝えてくれるもので、それによって僕までもを少し幸せな気分にしてくれるものだった。彼と全く会っていなかった16年間が詰まっているような気もして、何となく嬉しかった。

2020/6/24 17:48:40 書き終わり 23:38:19 少し修正

 

 

 

 

vol. 109
2020.5.31 (sun)

2020.5.30
17:00:45

大通りというほどではないが、それなりに交通量の多い道が家の前にある。自分の部屋は2階にあり、僕はあまりカーテンを閉めないので、道路から室内が丸見えになっていることがよくあると思う。そして家の少し先には信号があって、ふと窓の外を見ると車の運転手やバスの乗客、あるいは歩行者などと目が合うことがある。信号を待つ手持ち無沙汰な車上の人々や、地味な道に飽きた通行人が、丸見えの部屋をボーッと眺めるのは自然なことだと思う。自分も同じような状況だったら「ここにはこんな人が住んでるんだな」とか思いながら見ると思う。

道路の上のそんな人々と目が合った時、僕はカーテンを閉めたりはせずにあえて彼らを見つめ返し、向こうが視線を逸らすまで凝視し続けるようにしている。「見世物じゃねえぞ」みたいな気持ちも多少あるが、そういう感情はそれほど強くはなく、ただ自分の中で設定した意味のないショボいゲームを楽しんでいるような感じだ。このゲームはほぼ100%僕が勝つ。自然に興味がなくなって目を逸らす人もいれば、こちらの視線に気づかれて慌てて視線を逸らされる場合もあるし、信号が変わって相手が目を逸らさざるを得なくなることもある。いずれにせよ、相手は僕に対して興味などあるわけがないのだし、「僕が勝つ」のは当然なのだけれど。

僕の生活の中にそんな1コマが入り込むようになって、もうすぐ丸3年が経つ。いつかこの部屋から引っ越して、人通りの少ないもっと静かな場所に住んだりしたら、日常の中からこの習慣はなくなるだろうと思う。そして何十年か経って、あるいは年老いたりもして、この部屋に住んでいた頃のことを思い出す時、こういう何気ない瞬間が懐かしく思い出されるような気がする。それか全く思い出されはせず、記憶の底に沈んでいるのかもしれない。今は5月の夕方で、まだ虫も少ないし、部屋のほとんどの窓を開け放っている。窓からは信号待ちの車が見える。とても気持ちがよくて、素晴らしい季節だと思う。

17:17:11

5/31 23:49:17 手直ししてアップロード
6/1 21:45:55 少し修正

 

 

 

 

vol.108
2020.4.27 (mon)

26:48

4月の日記。
近ごろ、自分の文章の冗長さが望ましくない形で増してきてしまっている気がするので、今月は簡潔さを心がけたい。冗長であること自体は問題ない、というかむしろ意図している部分でもあるのだけど、過剰になってしまうのは良くない。


モーリス・ラヴェルの楽曲「ボレロ」と、ジョアン・ジルベルトのアルバム「三月の水(João Gilberto)」に、似たような種類の狂気と美しさを感じる。後者については、ハイハットで参加しているソニー・カーと、エンジニアを務めたウェンディ・カルロスの功績も大きいと思う。どんな狂気と美しさか?といえば、いつのまにか眼の前に極めて端正かつ人工的な空間が生まれていて、その構造の中で何かが淡々と繰り返されていくだけなのに、そこから目が離せない、というような狂気と美しさだ。……と、5分くらい考えて書いてみたけれど、やはり言い尽くせない。


先月から家にいる時間が増えたので、音楽をたくさん聴いている。楽器を弾いたり曲を作ったりしている時以外は基本的にずっと音楽をかけている。それらの音楽は、大雑把に、ジャズ / 南米音楽 / ロック / ポップス / クラシックなどのジャンルに分けられると思う。ここ数年はジャズの割合が高かったのだが、1日の中でゆったりと音楽を流せる時間が増えると、ロックやポップス、クラシックを聴きたいと思う時間が生まれるようになった。たとえば、これまでハードロックなどはあまり積極的に聴きたいと思ったことがなかったのだが、天気の良い日の朝11時頃とかに意外と合う。あるいは料理をしている時はクラシックが良い、献立によってはJ-POPの方がしっくり来る、とか。周りの環境や自分の状況を滑らかに把握できるようになることで、これまで関わりが少なかった音楽が自分の1日の一部に自然と入り込んでくる感じが面白い。音楽の好み、というのは本当はあってないようなもので、感覚さえ開かれていれば、季節の野菜を楽しむように色んな音楽が味わえるようになるのかもしれない。でもやはり多くの場合、忙しく働いてるとそうはいかず、自分の好きなものを中心に摂取するようになるのだろう。だから今のうちにこの感覚をもう少し知っておきたい。


呑気なことを2つ書いたけれど、世の中の状況が、日に日に先の読めないものになってきている。毎日どんな新しい情報があるか気になって、ついネットに張り付いてしまうことが多いのだが、それによってどんどん具合が悪くなってくる。特にSNS。しかも張り付いたから有益な情報が得られるかというと、多分そうでもない。と思って数週間前からSNSに入らない日を半ば強制的に設けるようにしている。物凄い効果があるわけでもないけど、多少は気が楽になり、頭がスッキリする。


上記3つは、4月の日記に書こうと思ってメモしていたこと。メモはもう1つあって、そこには「補償金」と「芸術」と書いてある。数週間前、芸術は補償金をもらうべきだろうか?というような書こうと思っていたけど、今は特に書きたいという気持ちがなくなったので、書かなくて良いと思う。

27:31

 

 

 

 

vol.107
2020.3.24 (wed)

27:07

今から約5年前。2015年の8月、青春18切符を使って西日本を旅行していた。
18切符で乗れる船、というものが全国に1つだけあって、それは宮島に行くフェリーだ。
広島に着いたとき、暇な時間が少しあったので広島と宮島を無意味に3往復くらいした。

宮島をブラブラしているあいだに地元の女子高生と話す機会があった。
隣の県に住んでいて、夏休みだけ宮島に通って短期バイトをしているらしい。
帰りのフェリーもたまたま一緒で、広島側の駅に着くまでの短いあいだ、船が進んでいく海を見ながら色んな話をした。
いま高校3年生で来年からはファッションの専門学校に行きたいと思っている、卒業した後は東京で働きたい、と彼女は言っていた。
駅に着いて、乗る電車は逆方向だったのでそこで別れた。

ほんの短いあいだだけれど、船の上のとりとめのない会話が自分にはとても美しい瞬間に思えて、このときの旅で一番印象に残った出来事になった。どんな未来になるか分からないけど、夢を叶えて幸せになってほしいな、などと社会人2年目になったばかりの自分は早くもベタすぎるジジイみたいなことを思っていた。

一昨日、その彼女と東京で5年ぶりに会って食事をした。彼女は無事に学校を卒業し、ファッションデザイナーとしての仕事を決め、数週間前に上京してきたのだった。
「お世話になったお礼です」と言って、明らかに何もお世話などしていない僕に、広島のいちじくのジャムをくれた。
3日後から東京で働くという彼女と駅で別れた後、こんな気持ちになる日はこれからの人生であと何回あるだろうと思った。彼女が5年かけて見事に自分の夢を叶えた一方で、自分は一体どれだけ成長できただろうか?などと考えて少しウンザリもしたが、もはやそんなこともどうでも良いくらいの豊かな気持ちだった。

*****

半年ほど前からジャズギターを習っている。
ギターを弾き始めて13年ほど経つけど、誰かに習ったこともなければ、コピーバンドなどをしたこともあまりなく、これまでギターに触る時間のほぼ全てを自分の曲を作ることに使ってきた。
だから独学もいいところで、10年以上弾いている割にはまともなことは殆どできない。
誰の真似でもないオリジナルなものを作りたくて、あえてそうしてきた。
それによって作れたものもあったと思うから後悔はしていないけど、数年前からこのやり方に限界を感じ始め、もっと前からちゃんと勉強しておけば良かったな、と思うことが多くなってきた。
早く先に進みたくてがんばって練習しているが、なかなか思うように行かないことも多く、そのたびに「あと10年早く始めていたら…」と思ったりする。
そして、死ぬまでのあいだにどこまで行けるだろうか?と思う。
もし自分が30代とか40代とかで若くして死んだとして、誰かが僕の部屋を片付けにきたとしたら、そこにはジャズの勉強をしている途中の形跡が残っているだろうなと思う。
それはどことなくセンチメンタルな状況かもしれない。

自分のことに限らず、そういった様々な状況、人間が過ごしてきた時間や思考。
それらを、特にセンチメンタルでもなく、というか何かの人間的な感情を伴うようなやり方ではなく、ただひたすらそのような状況があるだけ、という形で提示するような音楽を作りたい。そしてそれは何か俯瞰的なものでもない。
そのためにジャズや、ギターの技術を利用できるようになりたい、と今の自分は思っている。

27:58

 

 

 

 

vol.106
2020.2.27 (thu)

24:16

風呂から出て洗濯機を回し始めた。

2018年は月に1回この日記ページを更新したのだが、去年はあまり書けなかった。
今年はまた月1で更新したいと思っている。これは2月の日記。

新型ウイルスの影響で世の中が大変なことになっている。
のだが、正直なところ、自分には正確な状況がよく分からない。
その理由は2つある気がする。

1つはネット上に情報が溢れすぎているから。「大変だ」と「いやいや、ちょっと違う角度から考えて」みたいな感じで色んな領域を少しずつ齧ってしまった結果、恐怖を感じて焦るわけでも、なにか俯瞰した目で世の中をみるような気分になるわけでもなく、「よく分からない」という感覚に陥ってしまっている気がする。

もう1つは、家にテレビがなくて、生活の中で電車など公共の乗り物に乗る機会も多くはなく、大きな会社などで働いているわけでもないために、「現在の世の中の一般的な空気」みたいなものがどんな感じなのか上手く掴めないからだ。テレビのない生活になってもうすぐ3年経つが、初めて何となく不便さのようなものを感じている。テレビでしか得られない「情報」というものはもう殆どない気がするが、テレビが家になければ知ることのできない「空気」のようなものはある。のかもしれない。

それとは全く関係ないけど、人は、ふざけたり、笑ったり、鼻歌を歌ったり、お腹がいっぱいになって寝てしまったりするが、死んだら動かなくなる。屈託なくふざけたり、笑ったり、寝ている人を見ると、この人が死んだら悲しいだろうな、と思うよな、と、今日ドンキホーテで食材コーナーを歩いている時にふと思った。そのとき自分は、千葉に住む明るい性格の叔母さんのことを特に脈絡なく思い出していた。

あるいは、家の窓から庭を見ている人がいるけれど、その庭の向こうにはその人が知らない壁があって、庭だと思っている場所も家の中かもしれない、というような話。(この喩えは、10年くらい前にある人から言われた言葉で、受け売りなのだけれど。)

そういった気配をまとった音楽を自分は作りたい。それらは一見すると突飛だったり、非現実的な表情を持っていたりするかもしれない。でも芯の部分では、世の中の流れから目を背けたり、日常から乖離したようなものではない。できることなら、聴いてくれた人にもそこまでのことを伝えたい。そんな音楽を作るためには、もっと色々なことを勉強する必要がある。

またもや全く違う話だけど、ここ何ヶ月かでU2のアルバムを20枚くらい聴いて、1つも好きな曲がなかった。でも先ほど聴いた「Stuck In A Moment You Can’t Get Out Of」という曲は少し好きだった。と思ってCDの解説を読んだら、日本のホテルで書き始められた曲だったらしい。そういえばちょっとJPOPっぽい曲かも。U2がどうこうというより、自分の感性の幅が狭いような気がして、ガッカリした。

洗濯機のアラームが鳴った。洗濯物を干す。
干し終わったら、寝るまでの数時間で、部屋を片付けて音楽のことを考える。

24:43

2/28 12:00 少し手直し

 

 

 

 

vol.105
2020.1.29 (wed)

いま住んでいるマンションは、1つのフロアに3つの部屋がある。
3年ほど前、自分はこのマンションの2階の端の部屋に引っ越してきた。そのとき反対の端の部屋には、自分と同じくらいの年齢の若いカップルが住んでいた。
たまに廊下で会って挨拶すると、自分とは全然違うタイプの明るい人たちで、なんだか嬉しかった。男の子の方は美容師だった。自分が音楽を作ったり美術関係の仕事をしたりしていると話すと「僕たち、お互いアーティストですね!」と屈託なく言ってくれて、恥ずかしかったが何となく嬉しかった。美容師の方が何倍も立派だと思ったが、口には出さなかった。
しかし半年ほど経ったある日、ふと気がつくとその部屋はいつのまにか空になっていた。
自分の知らないうちに自分の知らない場所へ、彼らが引っ越してしまったのが少し寂しかった。

ほどなくして、今度はその部屋におじいさんが引っ越してきた。
このマンションはペット禁止なのだが、日中にその部屋の前を通ると明らかに小型犬の鳴き声が聞こえることがあった。
聞こえるというか、僕の気配に気づいて / 僕に向かって堂々と吠えている感じだった。
おじいさんは日中はその部屋で1人で暮らしているようだったが、夜になると娘と孫と思しき人たちがやってきて、おじいさんと犬を連れてどこかに行くことがあった。
近くに娘たちが住んでいて、夜はたまにそっちの家で過ごしているのかもしれないな、と思っていた。
築40年以上の古びた雰囲気のマンションなので、おじいさんが一人暮らしをしているのは何となく寂しい気がしてしまうのだが、近くに身寄りがあるなら良かった、と勝手に心配したり安心したりしていた。

1年ほどが経ったある日、ふと気がつくとそのおじいさんもいなくなっていた。
もしかしたら、1年間かけて2世帯住宅を新築していて、その間わけあっておじいさんだけはこのマンションで日中は犬を預かりながら一人暮らしをしていたのかもしれないな。家が無事に完成したから、娘夫婦と孫が待つ新居に引っ越したのかも、などと考えた。
もちろん完全な憶測で、真相はわからない。

そして少しあいだがあって、今度はその部屋におばあさんが引っ越してきた。
おばあさんというか、おばあさん&おばさん?
2人の女性の姿をたびたび見かけるのだが、メインはおばあさんで、おばさんの方はたまに部屋に来ているという感じだ。
犬のおじいさんの時と同じパターンで、おばあさんが一人暮らししている家に、娘か親戚か何かのおばさんがたまに様子を見に来ているという感じなのかもしれない。
おばあさんはかなり夜遅く、27〜28時頃までは普通に起きていることが多かった。
自分もよくそのくらいの時間まで起きているのだが、夜中に外に出る時におばあさんの部屋の前を通ると、大体いつも明かりが煌々とついていてテレビの音が聴こえた。
飲み屋とか、水商売系の仕事を長年やっていた人なのかもしれないな、などとまた勝手に憶測していた。
おばあさんの部屋の目の前には、すぐマンションの玄関に出られる階段がある。でも彼女は大体いつもエレベーターを使っているようだった。一度会った時、「足が悪くてね」みたいなことを言っていたと思う。

先週、ある日の夕方、仕事の休み時間に遅い昼食を食べるために家に帰った。即席ラーメンを食べて家を出ると、おばあさんの部屋に救急隊のような人たちが次々に入っていくのが見えた。部屋の前を通るとき、中の話し声が少し聴こえた。何かの状況を確認しているような雰囲気だった。マンションの廊下には、赤ちゃんの排泄物のような匂いがうっすらと充満していた。マンションの外に出るとストレッチャーが置いてあり、救急車が停まっていた。すぐ後に消防車も来た。おばあさんの部屋にはまだ救急隊が集まっている。心配でマンションの外から少し様子を見ていたが、出てくる気配はなかったので仕事に戻った。そのあとは職場で仕事をしているあいだも、おばあさんのことが頭の片隅にずっとあった。

夜、仕事から戻るとおばあさんの部屋の灯りは消えていた。病院に運ばれたのかもしれない、無事だと良いんだけど…と思いながら料理をしていると、マンションの廊下から音が聴こえた。部屋を出てみると、おばあさんの部屋から女性が出てきた。いつも来てるおばさんってこの人だっけ? いや違う人な気がする。でもとりあえず訊いてみる。

「昼間、大丈夫でしたか? 救急隊が…」
「ええ、お騒がせしまして…」
「全然大丈夫です。おばあさんは無事でしたか?」
「ええ…」

女性は静かに微笑みながらそう言ってマンションから出て行った。無事だったのなら良かった。一安心して料理の続きに取り掛かった。

食後、少し遅い時間。また廊下から音が聴こえた。出てみると、2人の若い男性が廊下やおばあさんの部屋の前の様子、マンションの外観の写真などをデジカメでパシャパシャ撮っていた。近づくと、こちらが話しかける前に向こうから声を掛けてきた。

「××警察の者です」
「あ、はい、同じ階に住んでいるので気になって…」
「詳しくはお話できないんですが、事件ではないです」
「おばあさんですよね? 」
「えー、あ、はい、そうですね」
「亡くなったんですか?」
「詳しくは話せないんですが、そういったことです」

病院に運ばれて無事だったら警察が写真を撮りにくることはないだろうな、と思った。だからきっとおばあさんは亡くなったんだろうと思った。

その日の夜は、同じフロアには僕しかいなかった。何も手につかないほどショック、というわけではないが、恐らく亡くなったのであろうおばあさんのことを常に頭のどこかで考えていた。いつものように夜遅くまでギターの練習をしたりしていたが、今この階には自分しかいないのだ、ということを何度も意識した。そして、自分が嗅いだのはもしかして死臭だったのだろうか? と考えた。いずれにしても確かめる方法はない。

翌日、おばあさんの部屋の前を通ると、いつもは閉じている玄関の扉の小窓に隙間ができていて、中の様子がちらりと見えた。玄関のすぐ目の前には給湯ポットが置いてあった。おじいさんが住んでいた時も、おばあさんが引っ越してきた時にも、渋谷にほど近い、交通量も多く騒がしいこの小さな古いマンションに高齢になってから引っ越してきて暮らすのはどんな気分なんだろう、と自分は思った。もちろんそんなことは人それぞれだし、何かそこに寂しさのようなものを見出すのは自分の偏見だとも思うけれど。

同世代のカップルにも、犬のおじいさんにも、遅くまで起きているおばあさんにも、面と向かって会ったことは数回しかない。同世代のカップルの顔は覚えているけれど、なぜかおじいさんとおばあさんの顔はほとんど思い出せない。姿形や雰囲気は何となく憶えているのに。

おばあさんは亡くなったのだろうか? もし亡くなっていたとしたら、あの部屋は事故物件ということになるのだろうか。おばあさんが残した給湯ポットはそのうち誰かが片付けて、少し経ったらまた違う誰かが引っ越してくるのだろうか。それは若い人だろうか、年老いた人だろうか。明るい人だろうか、それとも暗い人だろうか?

*ここまでの内容は全てフィクションです。
と言ったら、どう思うだろう?