2020

vol.105
2020.1.29 (wed)

いま住んでいるマンションは、1つのフロアに3つの部屋がある。
3年ほど前、自分はこのマンションの2階の端の部屋に引っ越してきた。そのとき反対の端の部屋には、自分と同じくらいの年齢の若いカップルが住んでいた。
たまに廊下で会って挨拶すると、自分とは全然違うタイプの明るい人たちで、なんだか嬉しかった。男の子の方は美容師だった。自分が音楽を作ったり美術関係の仕事をしたりしていると話すと「僕たち、お互いアーティストですね!」と屈託なく言ってくれて、恥ずかしかったが何となく嬉しかった。美容師の方が何倍も立派だと思ったが、口には出さなかった。
しかし半年ほど経ったある日、ふと気がつくとその部屋はいつのまにか空になっていた。
自分の知らないうちに自分の知らない場所へ、彼らが引っ越してしまったのが少し寂しかった。

ほどなくして、今度はその部屋におじいさんが引っ越してきた。
このマンションはペット禁止なのだが、日中にその部屋の前を通ると明らかに小型犬の鳴き声が聞こえることがあった。
聞こえるというか、僕の気配に気づいて / 僕に向かって堂々と吠えている感じだった。
おじいさんは日中はその部屋で1人で暮らしているようだったが、夜になると娘と孫と思しき人たちがやってきて、おじいさんと犬を連れてどこかに行くことがあった。
近くに娘たちが住んでいて、夜はたまにそっちの家で過ごしているのかもしれないな、と思っていた。
築40年以上の古びた雰囲気のマンションなので、おじいさんが一人暮らしをしているのは何となく寂しい気がしてしまうのだが、近くに身寄りがあるなら良かった、と勝手に心配したり安心したりしていた。

1年ほどが経ったある日、ふと気がつくとそのおじいさんもいなくなっていた。
もしかしたら、1年間かけて2世帯住宅を新築していて、その間わけあっておじいさんだけはこのマンションで日中は犬を預かりながら一人暮らしをしていたのかもしれないな。家が無事に完成したから、娘夫婦と孫が待つ新居に引っ越したのかも、などと考えた。
もちろん完全な憶測で、真相はわからない。

そして少しあいだがあって、今度はその部屋におばあさんが引っ越してきた。
おばあさんというか、おばあさん&おばさん?
2人の女性の姿をたびたび見かけるのだが、メインはおばあさんで、おばさんの方はたまに部屋に来ているという感じだ。
犬のおじいさんの時と同じパターンで、おばあさんが一人暮らししている家に、娘か親戚か何かのおばさんがたまに様子を見に来ているという感じなのかもしれない。
おばあさんはかなり夜遅く、27〜28時頃までは普通に起きていることが多かった。
自分もよくそのくらいの時間まで起きているのだが、夜中に外に出る時におばあさんの部屋の前を通ると、大体いつも明かりが煌々とついていてテレビの音が聴こえた。
飲み屋とか、水商売系の仕事を長年やっていた人なのかもしれないな、などとまた勝手に憶測していた。
おばあさんの部屋の目の前には、すぐマンションの玄関に出られる階段がある。でも彼女は大体いつもエレベーターを使っているようだった。一度会った時、「足が悪くてね」みたいなことを言っていたと思う。

先週、ある日の夕方、仕事の休み時間に遅い昼食を食べるために家に帰った。即席ラーメンを食べて家を出ると、おばあさんの部屋に救急隊のような人たちが次々に入っていくのが見えた。部屋の前を通るとき、中の話し声が少し聴こえた。何かの状況を確認しているような雰囲気だった。マンションの廊下には、赤ちゃんの排泄物のような匂いがうっすらと充満していた。マンションの外に出るとストレッチャーが置いてあり、救急車が停まっていた。すぐ後に消防車も来た。おばあさんの部屋にはまだ救急隊が集まっている。心配でマンションの外から少し様子を見ていたが、出てくる気配はなかったので仕事に戻った。そのあとは職場で仕事をしているあいだも、おばあさんのことが頭の片隅にずっとあった。

夜、仕事から戻るとおばあさんの部屋の灯りは消えていた。病院に運ばれたのかもしれない、無事だと良いんだけど…と思いながら料理をしていると、マンションの廊下から音が聴こえた。部屋を出てみると、おばあさんの部屋から女性が出てきた。いつも来てるおばさんってこの人だっけ? いや違う人な気がする。でもとりあえず訊いてみる。

「昼間、大丈夫でしたか? 救急隊が…」
「ええ、お騒がせしまして…」
「全然大丈夫です。おばあさんは無事でしたか?」
「ええ…」

女性は静かに微笑みながらそう言ってマンションから出て行った。無事だったのなら良かった。一安心して料理の続きに取り掛かった。

食後、少し遅い時間。また廊下から音が聴こえた。出てみると、2人の若い男性が廊下やおばあさんの部屋の前の様子、マンションの外観の写真などをデジカメでパシャパシャ撮っていた。近づくと、こちらが話しかける前に向こうから声を掛けてきた。

「××警察の者です」
「あ、はい、同じ階に住んでいるので気になって…」
「詳しくはお話できないんですが、事件ではないです」
「おばあさんですよね? 」
「えー、あ、はい、そうですね」
「亡くなったんですか?」
「詳しくは話せないんですが、そういったことです」

病院に運ばれて無事だったら警察が写真を撮りにくることはないだろうな、と思った。だからきっとおばあさんは亡くなったんだろうと思った。

その日の夜は、同じフロアには僕しかいなかった。何も手につかないほどショック、というわけではないが、恐らく亡くなったのであろうおばあさんのことを常に頭のどこかで考えていた。いつものように夜遅くまでギターの練習をしたりしていたが、今この階には自分しかいないのだ、ということを何度も意識した。そして、自分が嗅いだのはもしかして死臭だったのだろうか? と考えた。いずれにしても確かめる方法はない。

翌日、おばあさんの部屋の前を通ると、いつもは閉じている玄関の扉の小窓に隙間ができていて、中の様子がちらりと見えた。玄関のすぐ目の前には給湯ポットが置いてあった。おじいさんが住んでいた時も、おばあさんが引っ越してきた時にも、渋谷にほど近い、交通量も多く騒がしいこの小さな古いマンションに高齢になってから引っ越してきて暮らすのはどんな気分なんだろう、と自分は思った。もちろんそんなことは人それぞれだし、何かそこに寂しさのようなものを見出すのは自分の偏見だとも思うけれど。

同世代のカップルにも、犬のおじいさんにも、遅くまで起きているおばあさんにも、面と向かって会ったことは数回しかない。同世代のカップルの顔は覚えているけれど、なぜかおじいさんとおばあさんの顔はほとんど思い出せない。姿形や雰囲気は何となく憶えているのに。

おばあさんは亡くなったのだろうか? もし亡くなっていたとしたら、あの部屋は事故物件ということになるのだろうか。おばあさんが残した給湯ポットはそのうち誰かが片付けて、少し経ったらまた違う誰かが引っ越してくるのだろうか。それは若い人だろうか、年老いた人だろうか。明るい人だろうか、それとも暗い人だろうか?

*ここまでの内容は全てフィクションです。
と言ったら、どう思うだろう?