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vol.85
2017.12.12 (tue)
「お詫び 2017」
ちょうど1年ほど前、この日記ページやツイッターなどで「2017年に新しいアルバムを発表します」と宣言したのですが、ぜんぜん間に合いませんでした。すいません。
そもそも昨年末の時点で「来年発表する」と断言したのも、明確なリリース時期などを想定できていたからではなく、無理やり断言して自分の中で〆切を設けた方がエンジンがかかるのではないかと思ったからでした。
エンジンはまあまあ掛かり、今も掛かっているのですが、当初より作品の構想が広がって作業量が増えたり、個人的にも交通事故、手術、スタジオ(家)の引っ越し、海外出張、再手術、豆の栽培、図書館通い、IKEAなど色んなことが重なり、で、結局間に合いませんでした。
わざわざお詫びなどしなくとも特に問題はないと思うのですが、2〜3人くらい、楽しみにしてくれていそうな人の顔が思い浮かんだ(気のせいかもしれませんが…)ので、ここに書きました。
ただ、そうやって楽しみにしてくれている人たちの期待にもしっかり応えられるようなものが出来てきているんじゃないかと思っています。
現在レコーディングの詰め作業とミキシングを並行して進めていますが、レコーディングはもう少しで終わります。先週メンバー全員でアルバムを最初から最後まで聴き、問題が見つかったヴァイオリンのパートの一部を一昨日録音し直したりしました。
という感じです。
年内にもう1回くらいこのページを更新したいと思っていますが、間に合わなかったらすいません。
その場合はみなさん、よいお年を。

 

 

 

 

vol.84
2017.8.8 (tue)
2年ほど前、京都にライヴをしに行った。
そのツアーのこと、主に道中の思い出については以前この日記にも書いたと思う。
もろもろ引っくるめて考えれば「行って良かった」と思えるツアーだったけれど、ライヴやイベントそのものに関しては正直残念なことも多かった。詳述はしないけれど、よく使われる表現で端的に言うなら、色々な面で “アウェイ” な環境で、それを凌駕するだけのことを自分たちが出来なかったんだろうな、と思う。
とっくに過ぎたことなので今となってはもうどうでもいいのだけれど、残念だったことの1つは、せっかく京都までライヴしに行ったのに、地元の人たち=ライヴハウスに集まった京都近辺のミュージシャンや音楽好きの人たち、とあまり交流できなかったことだ(もちろん自分の社交力不足も大きな原因の1つ)。

 

その日、対バンのうちの1組は地元の「本日休演」という同世代(たぶん)のバンドだった。
その時の本日休演のライヴで最も印象に残った一幕。それはある曲の途中で、キーボードの人が狩猟民族の雄叫びのような、あるいは馬の嘶きのような、異様な叫び声を出していた場面だ。
民族的というか呪術的というか、どこかで聴いたことのあるニュアンスの声なのだけれど、ロックバンドの音楽の中で聴いたことはない声で、その組み合わせが面白いなと思った。あと単純に声が良かった。
その人はキーボードと雄叫びの他にもコーラスとか色んなことを器用にやっていて、そのどれもがとても音楽的に聴こえた。鍵盤奏者が屋台骨を支えているのはやっぱりどのバンドも一緒だな、みたいなことを勝手にボンヤリ思った。

 

イベント全体が終わって帰ろうとしている時。そのキーボードの人が1人でこっちに来て「しゃしくえ良かったです」というようなことを言ってくれた。それに対して自分はたぶん「ありがとうございます。東京でも対バンしましょう」というようなことを言ったと思う。

 

恐らく1分にも満たないであろうその会話が、自分がそのツアーでできたほぼ唯一の「地元の人との交流」だったと思う。
こう書くだけだと「殆ど中身ねえじゃねーか」と思われるかもしれないが、彼の話し方や表情、その前のアウェイな状況などを含めて、自分にとってその会話はとても嬉しいものだった。
お互いこれから長いあいだ音楽を続けていく上で、またどこかで会えたら良いな、というようなベタなことを思いながら夜行バスで東京に帰った。

 

 

先日、そのキーボードの方が亡くなったということを知った。
僕は彼のことを殆ど何も知らない。けれど、あのとき交わした短い会話は大切なものとして自分の中に残っている。
短い会話の中の言葉で彼の全てが分かるわけではない。でも彼の中心にある大きさや温かさのようなものがストレートに自分の中に入ってきたような気がした。
音楽や、音楽の現場における出会いには、そういう瞬間がたまに訪れると思っている。

 

彼にもう会えないとしたら残念だと思う。
誰も見ていない静かな湖の底に、小さな石が沈んでいくような気分になる。
あとあの時、「ありがとうございます。雄叫びめっちゃ良かったです」って言えば良かったなと思う。東京でも、ってダサいし。

 

 

 

 

 

vol.83
2017.6.16 (fri)

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vol.82
2017.5.27 (sat)
昨日、大学のとき英語の授業が一緒だった女子2人と3年ぶりに会って、回転寿司を食べに行った。
それぞれの近況などを話して楽しく過ごしたのだが、会話の中で、自分は2人からずっと「田中といえば、のび太」という存在として認識されているということを初めて知った。
大学2年の頃、僕がのび太のような服装で学校に来たので、それを見た2人が「今日、のび太じゃね?」みたいなことを言ったところ、僕は「自分はのび太のことをリスペクトしているし、今日のこの服装はのび太へのオマージュである」というようなことを言ったらしい。それから2人のあいだでは、ずっと、いまだに、「田中といえば、のび太」という印象が僕を第一に象徴するものとなっているのだ。
自分にはそんな話をした記憶が全く無かったのだが、言われてみるとなんかあったような気もしてくる。いずれにせよ自分が口走りそうなセリフではあるし、大学2年の頃は少し頭がおかしかったので止むを得ない部分もあると思う。
とにかく、もう少しちゃんと謙虚に生きようと思った。
そしてのび太のことは今も変わらずリスペクトしているので、「自分やっぱ良いこと言うな」とも少し思った。

 

今年は5月病にならなかった気がする。
ゴールデンウィークがなかったからかもしれない。
でもそもそもこれまでに5月病になったことなどないような気もするし、常に毎日なんとなくだるいといえばだるい。
今の季節の名前はなんだろう?

 

 

 

vol.81
2017.4.25 (tue)
3〜4年に一度、望月峯太郎さんの漫画『ドラゴンヘッド』を無性に読みたくなることがある。
さっき夕飯を食べている時に、その波が不意に訪れた。
今の季節の感じ、自分の精神状態、そしてそのとき部屋のテレビで流れていた箱根・地獄谷の映像が、自分の中のドラゴンヘッド的な感覚を呼び起こしたのだと思う。
部屋の本棚の奥にその漫画は仕舞ってある。
ページを繰っていくと、そこには物凄く深く大きい穴のような闇が広がっている。ということを自分は知っている。
念のために書いておくけれど、いま自分の心身は春の恩恵を受けて、とても健康な状態だ。

 

 

 

vol.80
2017.4.9 (sun)
昼間の電車にパジャマ姿の人が乗っていたら、だらしなく見えると思う。
でも夜遅く自宅でゆっくり過ごしている時は、スーツよりパジャマを着ていた方がカッコよく見えると思う。
春だ。桜が咲いている。
夜窓を開けていると、遠くを走る電車の音が風に乗って届くことがある。
ガタンゴトン。
特に関係ないけど3月末に長野で撮った写真。

 

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vol.79
2017.3.21 (tue)
学生時代、美術史や音楽史、あるいは美学など、諸芸術に関する様々な勉強をしていた。
大学はストレートに卒業して、その後アカデミックな勉強は特にしていないが、今も同じようなことを(もしかしたら学生時代以上に)考え続けているし、相変わらず自分でも作品をつくったり、仕事でも近い分野に関わらせてもらったりしている。
しかしこれまで、自分の作りたいものが、芸術史上のどんなジャンル(◎◎派とか△△主義とか)に属するもの・共鳴するものなのか、ということは殆ど考えたことがなかった。そういったものを意識することで自分が何かを成し遂げられるとも思わない。
でも1週間ほど前、ふと何かの拍子に「自分がやりたいことはサンボリズム(象徴主義)とミニマリズムと具象(≠現実主義、自然主義)の融合みたいなこと、に近いのかもしれないな」と思ったことがあった。
一時的なものかもしれないし、当たっているのか外れているのかはよく分からないけど。

 

*
子どもの頃、テレビが好きで、何の懐疑心もなく毎日いろんな番組を観ていた。中学か高校の頃「メディアリテラシー」という言葉を覚えて、「テレビでやってることなんか殆ど嘘だし、あらゆる報道は媒体ごとの偏見・カラーに基づいてなされているわけだから、どんな時も批判的に摂取しなければいけない」みたいなことを思っていた。大学の頃までそんな感じだった気がする。
子どもの頃、あるいは中学〜大学の頃と比べて、今の自分が物凄く成長したとはそれほど思わない(それはそれでマズいのかもしれないが)。
けれど、今の自分はテレビでやっていることに関して「ある程度は本当なんだろうな」と思っている。ような気がする。
それは、テレビの中の世界に自分の感覚が少しずつ近づいてきたから、テレビの中の世界が自分にとってより現実的に身近なものになってきたから、ではないかと思う。
念のため書いておくけど「大人になってスレてきた」という意味ではない。

 

*
「贈賄=賄賂を贈る」、「収賄=賄賂を収める」という意味だということに気づいたのはここ1年くらいだったと思う。

 

 

もう春だ。
震災から6年が経った。

 

 

 

vol.78
2017.2.27 (mon)
1ヶ月ほど前、通勤中に車に跳ねられて左肘を粉砕骨折した。
翌週に全身麻酔の手術を行って、その前後で4日ほど入院した。
自分にとって初めての入院と手術で、さまざまな発見があった。
その多くは言語化することが難しかったり、ここに書くべきだとは特に思わない事柄だ。
でもいくつか書けることを書いてみたい。

 

*
手術当日、朝9時までは飲み物の摂取を許されていた。
手術は13時頃から始まる。術後は24時頃まで何も飲めない。
間違いなく喉が渇くので今のうちにたらふく飲んでおこうと思い、手術の日の朝、休憩室で栄養ドリンクなどをがぶ飲みしていると、同じ病室のおじさんがやってきて話しかけてきた。
70代で、末期のがんだという。
手の施しようがなく、何も治療をしなければ半年ほどで亡くなるが、抗がん剤治療で死を先延ばしにしていると言っていた。
その治療が辛くて、投薬されている間は死んだ方がマシだと思う。
でももう一度だけ東京オリンピックを観たい。それまでは生きていたい。
1964年のオリンピックの時、自分は19歳だった。
駒沢競技場では、みんな勝手にフェンスを乗り越えて侵入して観戦していた。
当時は今のようにセキュリティがしっかりしていなかったから。
僕が交通事故で入院していると言うと「相手から取れるだけ金を取った方が良い」と言われた。
おじさん自身も若い頃に似た経験をしたらしい。
そのあと色々話して、会話の終わり際、僕はおじさんに「次のオリンピック楽しみですね」と言おうとした。
でもその時、会話の流れを遮る何かがあって、結局その言葉を言うことはできなかった。
何が会話を遮ったのかはもう忘れてしまった。
おじさんが看護師の人に呼ばれたか、もしくは単に会話がそういう流れにならなかったか、その程度のことだったと思う。
おじさんと別れたあと、次に会った時に改めて同じことを言えば良いやと思った。
でも手術が終わって、翌朝身体が動くようになった時には、おじさんは一時帰宅のためもう退院してしまっていた。
その日の午後になると、おじさんがいたベッドには、もう新しく入院してきた違う人が寝ていた。

 

僕が人生の中でおじさんとしゃべったのは、このわずか10数分だけだっただろうと思う。
会話の中で彼は「この歳になると死ぬことはもう怖くない」とも言っていた。

強がりではなく、本当にそう思っているように聞こえた気がした。
おじさんと話したあとで、自分はまだ若く、今回の腕の怪我は大したことではないと思った。
病院の中にいるあいだ、そう思った場面は他にも何度もある。

 

*
「全身麻酔では意識が消失します」
と、手術の前日に麻酔科の検診で言われた。
4〜5万分の1程度の確率で死んでしまうこともあるらしく、同意の書類にもサインをさせられた。
ビビりながらも、半分は「貴重な経験ができる」というワクワク感が自分の中にあった。
記憶にある限り、僕は「意識を失う」という経験をしたことがない。
そして「自分はこれから意識を失う」と前もって覚悟した上で意識を失う瞬間を体験できる、という状況は、全身麻酔の他にはほとんどないのではないかと思った。
「意識を失う」というのはどんな感じだろう。
眠りにつく時のような感じだろうか。
NIPPSというラッパーは以前、「睡眠は死のいとこ」と歌っていた。
死ぬ時も同じような感じなのだろうか。
いま生きている人間は誰も、「死ぬ時にどんな感じがするのか」ということを知らない。
僕は説得力のある「死の描写」がなされている作品を尊敬している。
念のために書いておくけれど、死にたいわけでも、誰かが死ぬのが好きなわけでもない。
ただ、そこには何か全く知らない世界への入口が開けているような気がする。
4年前に初めて読んだいがらしみきおさんの『I【アイ】』という作品の最後のページでは、自分がこれまでに触れてきた中で最も説得力のある「死の描写」がなされていた。
全身麻酔を経験すると、それに近い感覚を得られるのではないか、という気がした。
そしてそれが少し楽しみだった。
結論から言うと、自分の全身麻酔の経験が『I【アイ】』に近いものだったのかどうかということは、よく分からない。
ちがうような気もする。
でも経験したことのない感覚だったのは間違いない。
手術台に寝かされてガスを吸引させられ、「今からだんだん眠くなります」と言われる。
そうすると、自分の中に、何か「墨」のようなものが満ちてくる感覚があった。
それが自分の中の意識や神経の回路をみるみる満たし、塞いで行き、95%くらいのところで止まった。
たぶん100%になった瞬間のことは覚えていない、ということなんだと思う。
そして少し時間が経ったような気がして、次に目が醒めたのはストレッチャーで元の病室に運ばれ、ガチャンという音とともにベッドが固定された時だった。

 

*
以上です。
あまり面白い文章ではないと思う。
入院中に自分が体験したたくさんの印象的な事柄の中のうち2つを、できるだけ虚飾なく書いたつもりだ。
当たり障りのない内容かもしれないけれど、これらの経験は自分の人生と作品づくりにとって、掛け替えのないものになったと思っている。こういったさまざまなことを僕は入院中に確かに自分の心身で体験した。
事故にあってから1ヶ月が経ち、リハビリは続いているし不便なことや悩ましいことも多いけれど、ぎりぎりギターを弾けるところまで肘が曲がるようになってきた。
何より死ななくて良かったと思う。
死ぬまでは精一杯生きていきたい。

 

そんなこんなで今年初めての更新が今日になってしまいましたが、今年もこのホームページをよろしくお願いします。
たぶん今年中にしゃしくえの新しいアルバムを出せると思います。
内容には全身麻酔の経験も反映されています。

 

 

 

 

 

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