vol.103
2019.10.21 [mon]

26:08

チェーンの飲食店が増え、スーパーやコンビニの安い食事が普及すると、個人経営の店は「価格」で勝負することができなくなる。そうなると個人経営の飲食店は、独自のサービスやこだわりのメニューによって高い客単価を維持できる店のみが生き残ることになる。その結果、世の中の飲食店は「安くて機械的な味の店」と「高くてスペシャルな味の店」のどちらか一方になる。ここで失われるのは、「ほどほどの値段で美味しい店」だ。そしてそれは、機械的な食事はしたくないが特に飲食店に付加価値を求めているわけでもない(店員には極力話しかけられたくないし、マニアックな食材にもそれほど興味はなく、800円くらいで普通の定食が食べたい、というような)人間の行き場が失われることを意味する。

作品というものは尊いものであると同時に、取るに足りないもの・馬鹿げたもの・壊れたらしょうがないもの、である。というのはもはや改めて言うまでもない前提だと思うのだが、どうだろう。違うだろうか?

調和しているもの、バランスが良いもの、より、ギリギリのところで調和やバランスが崩れているものの方が好きだ。そしてそういったものは、作者が自分の力量の限界ギリギリのところを攻めることによって生まれるものだと思う。というようなことを数日前に思って、いま書き留めてみたのだが、書き始めたところで「もしかしたら違うかもしれない」と思った。最初の「調和しているもの、」あたりをキーボードで打ち込んだあたりで「違うかも」と思った。

今日吉祥寺を散歩していて、たまたま立ち寄った古本屋で鈴木志郎康さんの読みたかった詩集を見つけて買った。

いまけっこう雨が降っていて、外から数人の若者の叫び声のようなものが聴こえた。この家に住んで2年半が経つ。繁華街が近いし、学校も多いし、夜中に若者の声が聴こえることはよくある。叫ぶ声、ふざける声、談笑する声、静かに語り合う声。それらのうちの何割かは、この世の人間の声ではない気がしている。

26:45

 

 

vol.102
2019.9.14 [sat]

昨夜、帰り道に自転車を漕ぎながら考えていたこと。

人間が生きている土地には、自ずと「都会」と「田舎」が生まれる。恐らく世界中どこでもそうなのではないかと思う。もちろん場所によって都市の規模や種類は千差万別だろう。都会とも田舎ともハッキリとは断言できない中間地点のような街もあるだろう。しかしそれらも「敢えて言うなら」という形であれば、いずれかに分別できる気がする。もしも仮に完璧な「中間地点」の街があったとしても、その隣には都会か田舎が存在するだろう。

まず単純に、そのことが興味深い。「都会」と「田舎」は必ず発生する、ということが。中間地点の街だけで出来た国、人口が満遍なく均等に分布した大陸、というのはまず存在しないだろう。単に「人がいるところに人が集まる」というだけの、それ以上でも以下でもない話なのかもしれないけれど。

そして、人間は必ず、人間が生きている土地で生まれることになる。つまり都会か田舎のいずれかで生まれることになる。そして生まれた場所でそのまま生きていくか、あるいは生まれた場所とは違う場所で生きるか、という選択を人生のどこかの段階ですることになる。これには2×2で4パターンある。

A:
・都会で生まれる
・田舎で生まれる

B:
・生まれた場所で生きる
・生まれた場所とは違う場所で生きる

上記のA×Bの組み合わせだ。つまり、

・都会で生まれ、都会で生きる
・都会で生まれたが、田舎に移り住む
・田舎で生まれ、田舎で生きる
・田舎で生まれたが、都会に移り住む

の4パターンが存在する。ただAに関しては生まれた時点で決まっているので、1人の人間に与えられる選択肢は2つのみ、ということになる。(もう少し範囲を広げて考えると、「都会で生まれて、別の都会に移り住む」あるいは「田舎で生まれて、別の田舎に移り住む」という組み合わせも考えられるのだが、このテキストとは少し違う文脈になる気がするので、割愛。)

「選択」と書いたが、自分で意識的に選ぶ人もいれば、特にこういったことは考えず、何となくの流れに身を任せたり、恣意的な現状維持であったり、あるいは止むを得ない事情で選択を余儀なくされたり、というパターンもあるだろうと思う。というか、殆どの場合はそうだろうと思う。だが、積極的にしろ消極的にしろ、何らかの形で自らの人生の舵を取る、という意味で、誰もが都会か田舎かを「選択」 している、といえるのではないかと思う。

人生は選択の連続である、というような言葉はあまりにも使われすぎていて、改めて持ち出すほどのものではない。結婚の選択、仕事の選択、音楽を聴くか聴かないかの選択……それらは無数に存在するが、しかし、「都会か田舎か」「生まれた場所で生きるか否か」という選択は、全ての人間が必ずどこかで通過する、人生や人間性を根源的に左右する選択の1つなのではないかと思う。

 

 

vol.101
2019.9.11 [wed]

あっという間に4ヶ月近くが経ってしまった。1つ前の更新も水曜日だったので、ちょうど16週間だ。前回は大雨の翌日に書いたようだが、今回も数日前に大きな台風が来て、夜中に物凄い雨風が吹き荒れていた。天気が荒れて少し経つとこのページを更新したくなるのかもしれない。千葉は大変なことになっているようだし、9.11から18年、3.11からは8年半ということで、呑気なことを言っている場合ではないのかもしれないけど。

台風の夜、27時頃、家の外に出てみた。下はその時に撮った写真。本当は近所の目黒川まで行きたかったのだけど、雨風が凄くて呼吸があまりできなかったので諦めた(目黒川については前回の日記でも触れたので以下参照。臭いについては今回も同じだった)。

実家に住んでいた時、台風が来ると母から「川を見に行くなよ。死ぬから」とよく言われた。しかし自分は台風の時に川を見に行ったことはない(大雨の時はある。すごかった)。一度も行ったことがないのに「行くな」と繰り返し言われるのは、自分が “台風の日に興味本位で川を見に行ってうっかり死ぬ、軽率な人” だと思われているからだと思う。それについて異論はないし、一方で一種の予言的な響きを持っているようにも聞こえるというか、自分は最期は川に落ちて死ぬのかもしれないな、と思ったりもしてきた。

自分はアルコールにあまり強くない。ビールを1〜2杯飲むのは好きだけど。居酒屋などで酒を飲んで数時間座って話したりすると、太ももの辺りがジンワリと痛くなる。血の巡りが何となく悪くなっているような感じ。自分の肉体のバランス的に、アルコールを飲むとそこに皺寄せが来るんだろうなと思う。逆の例だと、自分は重いものを運んだりしても「肩が凝る」という経験をしたことがあまりない。背中や腰、脚にダメージがくることはよくある。これらも肉体のバランスによるもので、人によって全然違うんだろうなと思う。酒を飲んで帰り、ベッドに寝転がって痛んだ脚の血管(?)を揉み解すたびに、川に落ちないなら、最期は太ももが痛くなって死ぬのかもしれないな、と思う。

 

 

vol.100
2019.5.22 [Wed]

去年はこの日記ページを月1回更新した。今年も同じペースで書きたいと思っていたものの、気づいたら半年近く経ってしまっていた。

この半年間は自分の人生史上でもかなり忙しく、色々なことがあった。ここに書ける主なトピックとしては、しゃしくえ2ndアルバムのリリースに至るまでの諸作業、古川日出男さん演出の画廊劇「焚書都市譚」への出演、ベースをもらう&ウクレレを買う、山本くんロシアへ旅立つ、など。

久しぶりの更新だし、この日記も記念すべきvol.100なので、こういったことをまとめて書きたいとも思っていた。が、時間の経過とともに書くべきトピックの量がどんどん増えてしまい、もはや収拾がつけられない気がするので、これらについてはまた別の機会にそれぞれ書きたい。

加えて、この日記ページの更新ペースを挽回したいという気持ちもあるので、とりあえず今日はあまり気張らず軽い内容で書いてみたいと思う。

昨日は夕方まで凄い雨だった。体調があまり優れず、2度寝して起きたら13時半だった。雨の様子を見ながら音楽を聴いたりマンガを読んだりして過ごした。自分の部屋の小さいベランダは豪雨によってかなり掃除されて、窓と床がピカピカになった。ありがたいと感じた。夕方図書館に出かけたら、いつも臭い近所の目黒川が臭くなかった。雨でいろんなものが洗い流されたのだろうか? 自然の力は凄いと思った。でも今日川沿いを通ったらもう既に臭さが戻っていた。

服の選択を間違えなければ、5月は凄く快適に過ごせる。良い季節だと思う。土や植物の匂いが濃く感じられる瞬間も多く、外で深呼吸をするのが楽しい。休みの日は、昼間必ず1回は自転車で近所をブラブラしている。でもしばらく外にいると飽きて、家に帰って何かをしたくなる。

夜に遠くの街の音が聞こえてくると、目を閉じて耳を澄ませたくなる。でもそこにいる誰かについて知りたいわけではないだろう。