Memos For Darkness *Section 1

制作クロニクル  2015/3/31 − 2019/3/31

2015年3月31日、高井戸にある区民センターの音楽室で、しゃしくえの2ndアルバムのレコーディングに入った。僕たちはこの日から極めて地道な制作を続け、ちょうど4年後の2019年3月31日に『Darkness』というタイトルでこの作品をリリースした。

制作に4年も費やしたのには無数の理由がある。でも何かドラマティックな出来事が起こって制作の中断を余儀なくされたり、設定した目標があまりに深遠だったために多大な時間を要した、というわけではない。4年のあいだ自分やバンドメンバーの生活、あるいは世の中の流れに様々な変化があり、その中で色々なことを考え、音楽に向き合う際の姿勢も時とともに少しずつ変わっていった。そうしたあくまで些細な変化の積み重ねによって徐々に作品が姿を変えていき、その1つの終着点が4年後に在った、ということだ。

4年間分のたくさんの取り留めのない出来事が反映されているので、一言でこの作品を説明する、ということが自分にはできない。ただ、アルバム発売の際のプレスリリースでは以下のような文章で作品が紹介されている。

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制作期間4年。10人の豪華ゲストを迎えて録音された、しゃしくえの5年ぶりとなる2ndアルバムが遂にリリース。ギター特有の不協和音作曲 × 生楽器の即興演奏 × 際限のない多重録音を追求し、人間の意識の外側にある「闇」への接近を目指した結果、メンバーにすら完全には理解できない特異な作品が完成した。

・作品詳細:

5年ぶりとなるしゃしくえの2ndアルバム「Darkness」には、3人のメンバーに加え10人のゲストが参加。インターネット音楽界の最深部で先頭を独走するHASAMI groupの青木龍一郎、古典から現代まで幅広く弾きこなす箏演奏家・江原優美香、名古屋の至宝・トゥラリカの横山匠と大西かずき、東京インディーシーンを中心に八面六臂の活躍を見せるドラマー・岸田佳也(from トクマルシューゴ , OWKMJ, MACOGHARI, and more)とフルーティスト・松村拓海(from 1983, OWKMJ, 菅原慎一 BAND, nariiki)、佐藤奈々子とのアルバム制作のほかジム・オルークや長岡亮介らとのフジロック出演でも話題を集めているギタリスト・Riki Hidakaなど、シーンや世代を越境したアクロバティックな人選によって、どこにも存在しない未知の音楽が完成した。
今作では、ギター特有の不協和音作曲を追求する田中の楽曲に、メンバーとゲストが演奏をダビングしていく形で制作が進行。各ゲストはしゃしくえによるベーシック録音の上で即興的な演奏を繰り返し行い、 それらを田中がDAW上で取捨選択してミキシングし、1 つの音源に仕上げた。したがってゲスト同士は互いの演奏や楽曲の全体像を知らない。この録音手法はジャコ・パストリアスが歴史的名作「ワード・オブ・ マウス」で採用した方法へのオマージュである。このアプローチによって、人間の意識の外側に存在する決して触知できない「無」の領域、あらゆる感情や価値が存在しない「闇」への接近を試みた。

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語り尽くせていない部分は多いけれど、できるだけ簡略にまとめるとしたら上記のような文章になる。「無」と「闇」をテーマにしている、と表向き / 便宜的には主張していて、それはまあそうなのだけど、その2つの単語だけだとこぼれ落ちてしまう、こまごまとしたものがたくさんある。でも上記のリリースの文章でさえ、CDの流通を担当してくださった方には「詰め込みましたね〜」と言われた。筆者が「語り尽くせていない」と思っている文章でさえ、他人にとってはもう十分、なんてことはよくあることだし、それは文章の下手さによるものともいえるかもしれない。だから僕がこれから書こうとしていることは、人によっては全く読むに値しないものだとも思う。

特に普遍的な価値を持っているとは思わないけれど、自分にとっては書き留めておきたい大切な物事。そういったことを言葉にしておきたくて、この文章を書き始めた。1つには、単に自分の備忘録のため。そしてもう1つには、数少ないと思うけれど、あのアルバムに興味を持ってくれて、もう少し作品に関するエピソードを知ってみたいと思ってくれた人のためだ。

些細で、とりとめのない、これから書くことの多くは、“作品解説” とか “ステイトメント” といった立派な名前で呼ばれるべきものではない。あえて名前をつけるとしたら “メモ” とかが相応しいと思う。そもそも自分にも、この作品の正体が何なのか、ということは分かっていない。制作の中心にいたのは僕(田中)だけれど、この作品は僕と山本明尚と大福という3人のメンバー、そして10人のゲストで作り上げたものだ。大げさに言えば13人分の4年間の視座が詰まっていて、だから単純に自分にとっても見えていない部分、未知な部分が多い。したがって僕は「この作品はこういうものです」と宣言するのではなく、4年のあいだに自分の眼前に去来した物事をただ1つ1つ言葉にしていく(=メモしていく)ことになると思う。今は2019年の12月31日、午前3時39分57秒。正月なので実家に戻ってきて、かつての自分の部屋に、物置の奥にしまってあった母の白い机を出して、パソコンでこれを書き始めた。どれくらいの長さになるかは分からない。

恐らくこの文章は、構造として4つほどのセクションに分かれることになると思う。自分にとっての書き易さ、そして読んでくれる人にとっての(多少の)読み易さを考えるとそうなると思うのだけれど、時間が進んだり戻ったり、重複したりするところが生まれてくるかもしれない。なるべく読み易くコンパクトにまとめたいと思ってはいるけれど。

まず初めのセクションでは、アルバムを作り始めてから完成に至るまで、どのようにして自分やメンバー、ゲストたちが動いていったかを、できるだけ時系列に沿って書いてみる。

2015年3月31日。前年の春に大学を卒業した自分は、1年間フリーターみたいな感じでいくつかのバイトをしつつ音楽を続けて、実家に格安の家賃で居座りながら職探しをしてきたところだった。そんな中でありがたいことに雇ってくれる会社がようやく見つかり、翌日の4月1日から働くことになっていた。メンバーの山本君と大福は自分よりも入学が1年遅かった(僕とは通っていた学校も違う)ため、その3月に卒業したばかりだった。だから山本君と大福も翌日からそれぞれ新しい生活を控えていた。そんなわけで当面は3人ともバタバタしそうだし、しばらくはこうやって集まったりレコーディングしたりはできないかもしれないな、とその時の自分は思っていた。

いきなり余談だけど自分がこの世で一番好きなものの1つはバンドのレコーディングだ。どれくらい好きか、ということは上手く説明できないけど、仮に1日で10曲録音したとしたら、そのベーシック音源(*バンド全員で「いっせーの」で録音した最初の音源をこう呼ぶ。この上に様々な楽器をダビングしたり、ミスしたところを差し替えたりしていく)を聴き返したり音をいじったり、という作業を繰り返すだけで、1ヶ月くらいは他に何の娯楽も要らず充実した時間を過ごすことができる。別のセクションでまた詳しく書くことになると思うけど、この感覚は、犬が電柱にオシッコをしてその匂い嗅ぐ行為と似たものなのではないか、と密かに思っている。

そんなわけで、しばらく3人でレコーディングはできないかもしれないし、新しい仕事も大変かもしれないけど、この録音素材を精神的な支えにして明日から頑張ろう、というようなことを自分は考えていたのだ。あと、実際そこまで深刻に考えていたわけでもないのだけど、ひょっとしたら3人とも生活が大きく変化して「結局あの日がバンドの最後の録音になった」ってことも起こりうるかもしれないな、というような考えも頭の片隅にはあった(そうならなくて良かった)。自分にとってはそういった感傷的な意味合いも少しあったレコーディングだったので、1stアルバムの時に約20人で合唱パートを録音した思い出があり、近くで綺麗な桜も見られる高井戸のスタジオを使ったのだった。

2014年に発表した1stアルバム『キラリティ』の制作には丸2年がかかった。これにも色々な理由があって、その一部は同じよう長いテキストに書いてこのサイトに残してある。そして2ndアルバムについては当初、1stよりも時間をかけず、作りもシンプルなものにしようとメンバーと話し合っていた。初日に録音した曲は「流れの中のありがとう(Thanks For Your River)」「Jasmine」「Little Dragons」「走れ!ブルドッグ」「ユートム」「力の波」「闇」など。最終的に、この日録ったテイクがアルバムに収録されることはなかった。でも全17曲の収録曲のうち、主要な曲の多くは既にこの時点で基本形が出来ていたことになる。しかし結局、制作には1stの倍にあたる4年がかかり、自分はその間に2回職を変わることになった。

3月31日に最初のレコーディングをしたあと、5月・6月・7月に1本ずつライヴがあった。7月のライヴは、1stを気に入ってくれたラジオ番組「象の小規模なラジオ」の皆さんが企画してくれたもの。番組でも頻繁に曲をかけてくれていたので、感謝を込めて新曲を作りサプライズ的に披露したいと思い、「Little Elephants」という曲をライヴ4日前に3時間くらいで作った。いつも自分は曲の完成まで時間がかかるけど、この曲はあっという間にできた。1つの理由は、4月に入った会社を早々と7月に辞めたことによって自分の中で何かが解放され、色々なアイディアが一気に湧いてきたからだと思う(ちょっと面白おかしく書いてしまったけど、こんな短期間で辞めたのは自分の根性と知性が足りなかったからだと、今ではとても反省している)。

このころは、3月に録った録音を聴き返したり、ミックスを試作してみたり、を繰り返していた。しかし演奏内容にあまり満足できなかったのと、それ以上に録音のクオリティが良くない気がして、8月に再度3人でベーシックを録り直すことにした。オーディオインターフェイスを新調するなど、機材を少しグレードアップして、昔ピアノを習っていた先生の自宅の音楽室をお借りしてレコーディングをした。この日が2回目のベーシック録音日。先述の「Little Elephants」は3月にはなかった曲なので、この日に初めて録音。「闇」は3月の録音の直前にできた曲で、前回は演奏が完成していなかったのでこの日初めてしっかりと録った。

この日の演奏は悪くなかった気がした(実際、完成したアルバムに入っている曲の多くは、この日のベーシックを使っている)。そんなわけで、夏の終わり頃からはダビング作業をスタート。9月には初めて京都にライヴをしに行った。ちなみに2020年5月現在、3人揃ってのしゃしくえのライヴはこの日以降ない。

しかし少し作業を進めていくうちに、「別の環境で、もっと優れた機材で録音したらどうなるんだろう?」ということが気になってきた。加えて、いくつか新しい試みをしたい曲もあった。そこで11月初め、たびたびお世話になっている八丁堀の「七針」で3回目のベーシック録音をすることにした。エンジニアは七針の林谷さん。確か5〜6時間程度レコーディングを行ったと思う。やはり自分の録音よりも明瞭な、そして七針特有の「箱鳴り」というか、空気感のある音で録ることができた。結論から言うと、アルバムに収録された17曲のうち3曲は、この日のベーシックを使っている。この3曲については、ピアノ、ヴァイオリン、そして僕のギターに関してほとんどダビングや差し替えを行なっていない。どの曲かはCDのクレジットにも明記しておらず、クイズ形式になっているので、良かったら聴いて考えてみてください。僕のミキシングによって他の曲との差は分かりづらくなっていると思うけれど、よく聴くと音の違いというか、七針の気配のようなものが混ざっているのが分かると思う。結果的に使ったのは3曲のみだけれど、それらはアルバムの色彩をかなり豊かにしてくれたし、この日のレコーディングを通して自分の録音を少し客観的に見られるようになった。たまたま七針にあった著名なミュージシャンたちの録音機材を使わせてもらったのも思い出深い。林谷さんに感謝。

七針での録音を挟み、2015年の秋から翌2016年にかけても引き続きダビング作業。8月にピアノの先生の音楽室、そして11月に七針で録ったベーシックの中から、良いテイクを見繕って進めていった。ちなみにこの頃、大福が家業の和菓子屋を継ぐためバンドをこれ以上続けられないかも、という一幕があったが、結局留まることになり、どさくさに紛れてステージネームが「大福」に変わり、今に至る。

少し前後するけれど2015年の冬、ダビング作業の過程で、やはりまだ機材が物足りない気がして、またもやインターフェイスを新調。使用しているDAWソフトも最新版にヴァージョンアップした。そしてこの頃からゲストの録音も始めた。まず最初は「ぬらりひょん」というバンドをやっているヨロズユイさん(ずんちゃん)。ヴォーカルで1曲参加をお願いし、10月に一度録音をした。加えてベーシストの佐志田葉輔さんにコントラバスでの参加をお願いして、12月と翌2016年の2月に、佐志田さんの自宅に計2回レコーディングしに行った。

先ほども少し書いたけれど、2ndを作り始めた当初、今回は最低限の編成でシンプルなアンサンブルに仕上げよう、というようなことをメンバーとも話していた。1stが量・質ともにかなり重たいものだったので、毛色を変えたかったからだ。そしてこの頃、つまり2015年末〜2016年前半頃の時点では、確かまだそんな思惑でいたと思う。バンドには低音楽器がいないし、コントラバスの温かい音を入れたいから佐志田さんにお願いする。あるいは、以前ライヴにサポート参加してもらって良い感じだったずんちゃんに、合いそうな曲を1曲お願いする、というような塩梅で、目的が割と明確な状態でゲストに声をかけていた。

しかし2016年に入って少しずつミックスを進めていく中で、何となく物足りないというか、しっくりこないというか、そんな感触に悩まされていた。たぶん理由は色々あって1つではないと思うのだけど、「自分の技術不足」「機材が今ひとつだった」「演奏が今ひとつだった」などが挙げられると思う。機材に関しては、制作がスタートした後に段階的に機材を新しくしていったことや、七針での音が加わったりしたことで、新旧のさまざまなクオリティの音素材が混在し「もっと良い音で録った方が良いのでは?」というモヤっとした懸念が生まれてしまった気がしている。この機材問題は、制作開始当初の「シンプルなアルバムを素早く作る」という目標にとっては障害となった、と言わざるを得ない。しかし同時に、音楽にとって機材やテクノロジーとは何か? 録音とは何か? そもそも音楽を残すこととは? といったことを技術面から考えるきっかけになり、その具体的な判断基準の1つにもなった。改めて別セクションでも詳述するけれど、煎じ詰めて言うなら「自分がどんなに時間と財を費やしても、最高の機材や環境を揃え、完璧な状態で運用することなど出来はしない。それでもあらゆる工夫を凝らし幸運が重なれば、素晴らしい音楽を形にすることはできる。そしてこれまで地球上の音楽は、それと同じ状況のもとで記録されてきた」というようなことを思った。ごく当たり前のことに聞こえるかもしれないけれど、機材について散々悩むことで、このような感覚を血肉化できた気がしている。

そして3月頃、そんな行き詰まった状況を打開したくて、山本君と2人で別のアルバムを作ってみることにした。1日でパッと録って出す、「シンプルな作り方」の練習のつもりだった。ミックスに少し時間はかかったけど、「Double Stairs to Eifuku」というフリーダウンロードのインスト作品を6月に発表した。

ちなみに山本君は、この頃から自身の研究の関係でロシアと日本を行ったり来たりするような生活に入っており、この作品を録音したのは彼が数ヶ月ぶりに帰国して久々に会う日でもあった。大福は都合がつかず欠席でデュオになったのだけど、今でもなかなか気に入っているアルバムだ。

この別作品の作業を挟んだことで、制作中の2nd少し引いて見られるようになったと思う。とはいえ、やはり何となく物足りないのは変わらない。そんな感じで少し悶々としていた7月頃、高円寺の円盤でやっていた中古楽器市場で、某凄腕エンジニア / アーティスト・Uさんが放出したマイクプリアンプを入手した。いま振り返ると、このマイクプリは制作を何歩も前に進めてくれることになった。機材の値段は本当にピンキリだし、上を見れば限りがないけれど、このマイクプリは自分にとってはなかなかの高級品だった。そして、それまでとは段違いで芯のある良い音が録れた。

このマイクプリを使って、夏から冬にかけてメンバーのダビングを進めて行った。自分自身でもギターなどを差し替えていく。夏頃には「氷だけが」という新曲なども出来ていたので、追加でレコーディングを始めたりした。12月にはずんちゃんに1年ぶりに再度来てもらって、もう一度ヴォーカルを録音。いずれも、やはり前とは段違いで良い音。となると、これまでに録った他のベーシックの楽器も録り直したくなってくる……というわけで、年が明けて1月24日、山本君の家のピアノを使って、七針で録った曲以外のほぼ全てのピアノパートを録り直した。コーラスやシンセなどもダビング。時間の許す限りさまざまなアプローチを試みて、各曲ごとに複数のテイクを録っていった。

話が少し逸れるけれど、この翌々日の1月26日、僕は通勤中にタクシーに跳ねられて左肘の骨が粉々になった。この時の手術で体験した、全身麻酔で意識がなくなる瞬間の「闇」の感覚は、『Darkness』というタイトルのコンセプトの1つになっている。このタイトルについてはまた改めて詳述するけれど、事故と手術の具体的な記憶については当時の日記(このページの一番下、2月27日の記事)に書いてあるので興味がある方は読んでみてください。タイトルについては2015年の制作スタート当初からいくつかの案があり、たびたびボンヤリと考え続けていた。そしてこの頃には既に「Darkness」が有力になっており、それが事故と手術の感覚によって決定的なものになったと思う(この辺の順序に関しては、少し記憶が曖昧なところもある)。

マイクプリを入手して録音が楽しくなり、メンバーのダビングが概ね出揃ってきたように感じられた2016年後半〜2017年初頭ごろ。明確なタイミングや考えは覚えていないけれど、アルバムの全体像に関する思惑が、自分の中で少しずつ変わってきた。メンバー&ゲスト数人によるシンプルな構成、という当初の案から、ゲストをたくさん招いた上で即興的なダビングを重ねていき、ミキシングでさまざまな演奏の断片を混ぜ合わせたサウンドを構築していくという方向にシフトしていった。その最初のダビングが、先述した1月の山本君との録音だったと思う。

この作り方は自分たちにとって新しいものではない。即興的な演奏を多重録音し編集していくという工程は1stの『キラリティ』でも採ったものだった。正直、「また結局このやり方かよ」と自分でも多少は思った。でも1stはゲストの人数が限られていたし、自分の機材やテクニック、発想にもあまり余裕がなかった。その幅をもう少し広げて、より実験的な録音とミックスをしたいと思ったのだった。ここまで書いてきたことのまとめになるけど、直接の要因は、録音期間が長引き「良い演奏」と「今ひとつな音」が混在したことによって制作に停滞が生じたこと、良い機材を導入したことによって「やっぱり録音は楽しいな」と思ったこと、そしてその過程で明確になってきた“Darkness”というコンセプトがその制作手法にリンクしてくるように感じられたこと、などだと思う。あとは「録り直したい部分もあるけど、ゼロからやり直すことによって消してしまうには惜しい素材がある」という状況で、それならこのまま過剰にダビングを施していって、予想できないような制作に突入してしまおう、というヤケクソと前向きが止揚されたような発想に至ったこともあったと思う。あるいはこの頃にはもうライヴは殆どやらなくなっていたので、制作の中に複数の演奏の時間や人との関わりを取り入れたかった、というのもあるかもしれない。

そんなわけでヴィジョンが変わってきた2016年の暮れに、名古屋のトゥラリカというバンドのベーシスト・大西かずきさんに連絡した。制作の状況をいろいろ聞いてもらった上で、とりあえず試しに1曲、という形で「湖(2つの横顔のための)」のリズムトラックをお願いした。ちなみにこの曲は2016年の初め頃に新しく出来た曲で、ベーシック録音とは別に、追加で宅録を始めたものだ。

方向性を転換してからの最初のゲストに大西さんを選んだ理由はあまりハッキリと憶えていないけれど、4年前も今も、僕は彼のことを斜め上から物凄く鋭いアプローチをしてくる人だと思っている。それに「リズムトラック」というもの自体も、それまでしゃしくえの曲には導入したことのないものだった。そんな少しアクロバティックな人選を挟むことによって、停滞気味な状況から思い切り舵を切りたかったのだと思う。そして、それはかなり功を奏した。2017年の年明け早々に上がってきたリズムトラックは繊細でありながら刺激に満ちたもので、自分からは全く出てこない発想に基づいていた。それが素晴らしかったので、「湖」が仕上がった後にもう1曲、それもできたら次はこの曲、といった感じで、大西さんには最終的に5曲へ参加してもらった。遠方なので、大西さんとはメールでのファイルのやり取りで作業。お互いの所用の合間を縫いつつ、でも彼は僕の細かい相談にも丁寧に応えてくれて、断続的なやりとりは2017年の11月頃まで約1年間続いた。のみならず、参加曲に関するやりとりが終わったあと、発売に至るまでの1年以上の間もミックスなどについてたびたび相談に乗ってもらい、交わしたメールは全部で約130通ほどになる。時には直接アルバムと関係ない内容もあったけれど。

前後するけど、2017年の年明けに大西さんとの作業を通して「未知のゲスト」に参加してもらうことの手応えを掴み、2017年の春には一気に5人のゲストを録音した。

まず4月3日に、ドラマー・岸田佳也さん。トクマルシューゴさんのバンドをはじめ、多くのユニットに参加している岸田さんだけど、僕は「俺はこんなもんじゃない(OWKMJ)」で一緒に演奏させてもらっている。ありがたいことに予め送った音源を非常に丁寧にさらってドラムパートを考えてきてくれた上に、現場での実験や試行錯誤にも柔軟に付き合ってくれた。

その次は4月17日に、同じくOWKMJで同僚のフルート奏者・松村拓海さん。岸田さん同様、拓海さんにも予め音源を送ったけれど、拓海さんの場合はその場での即興の割合が高かった。決まったフレーズを吹いてもらったのは確か1ヶ所だけで、それ以外は現場で生まれたその日限りのフレーズ。ピッコロ、フルート、アルトフルート、バスフルートを何度も持ち替えて、たくさんの演奏を試して録音させてもらった。

4月30日には、琴演奏家の江原優美香さんに参加してもらった。江原さんの参加は、大西さんとはまた違った意味でチャレンジングだった。彼女となら何か面白いことが出来そうだ、と思ってお願いしたものの、そもそも僕は実際に琴の演奏を聴いたことが殆どないし、もちろん録音もミックスもしたこともない。果たしてバンドのアンサンブルに馴染ませられるのか?と、頼んでおきながら不安だった。しかし僕の無計画と心配とは裏腹に、江原さんの技倆は素晴らしく、最終的にゲスト最多の8曲に参加してもらうことになった。しかもそのうち1つは江原さんの演奏のみで成立しているトラックだ。ちなみに録音における即興演奏の割合は、岸田さんと拓海さんの中間くらいだったようにと思う。

5月31日に、Riki Hidakaくんにギターを弾いてもらった。日高くんはこの頃まだニューヨークに住んでいて、最初はメールで音源をやりとりして作業を進めようともしていたのだけど、結局はこの日の現場で、全て即興で演奏を重ねていった。

6月4日に、利根川信也さんにギターを弾いてもらった。同じく事前に音源は渡してあったけど、基本的にはほぼ全て現場での即興。

こうやって羅列して書いていくと分かりやすいけれど、各ゲストの参加の仕方や、録音時の計画性と即興性の比率などは人によってかなり違っていて、行き当たりばったりな点も多かった。でもそういった何が起こるか分からない録音とそこで生まれる化学反応こそが、自分の求めていたものだった。

ただ同時にそれは、この頃になるとゲストの人選に最初の頃のような明確なヴィジョンはあまりなかったことの裏返しだともいえる。打楽器に関してはこれまで全く入れていないので、岸田さんにドラムをお願いしたのはまあ理に適っているとして、明らかに上物(メロディ楽器)を乗せすぎである。バンドメンバーの構成が既にギター・ヴァイオリン・ピアノと偏っているのに、そこに更に4人上物を重ねて、しかもギターは自分を含め3人いる。曲によって棲み分けている場合もあるけど、1つの曲で3人が同時にギターを弾いていたりもするので、普通に考えるとアンサンブルのバランスが悪すぎる。

しかしもちろん、完全なデタラメでゲストを選んで声をかけていたわけではなかった。このとき参加をお願いしたのは、一度一緒に演奏をしてみたいと密かに思っていた人たち、もしくは何かきっと新しい風を吹き込んでくれそうだと思った人たちだった。どうせやるなら豪華に、と思ったのもあるし、次にいつこんな風にしてアルバム制作に取り組めるか分からないとも思って、一気に声をかけた。ちなみにこういった発想に至ったのは、尊敬するバンド・sakanaが『my dear』というアルバムを作った時のエピソードに触発されている部分があると思う。

あともう1つ、他ではありえないようなメンツを組み合わせたかったというのもある。もちろん僕個人の人脈だから限界はあるのだけど、いわゆる日本のインディー音楽系のみならず、あるいはクラシック系やジャズ系のアカデミックな人選だけとも限らない、唯一無二と思えるメンバーでアルバムを作ってみたかった。この後にもう2人ゲストが登場するけれど、各ゲストについてはまた別セクションでも詳しく紹介します。

そうやって一気に5人のダビングを録ったあと、僕は2017年の6月末に引っ越しをして、それに伴ってモニター用のスピーカーやヘッドフォンなどの機材を少しずつ新調していった。そして並行して5月から翌年3月まで音楽学校に通い、横川理彦さんにサウンドプロダクションを教わった。授業ではアルバムの曲の一部を課題として提出して添削してもらったりもした。横川先生の授業で教わったことは一言では書けないので省略するけれど、DTMの技術のみならず、この世界に存在する様々な音楽の歴史や理論を幅広く学ぶことで、自分の制作物を少し客観的に見る力や、さまざまなアプローチを考えていく発想を養えたと思う。

2017年の後半はそんな風にして、新しい環境になれながら、色んな技術や知識を吸収しつつ、録り溜めたメンバーとゲストの演奏を何度も聴き返し、それらを細断し、さまざまに組み合わせてアレンジとミックスを組み立てていく作業に費やしたと思う。これは自分にとって、かなり集中力を要するキツい作業だけど、同時に至福の時間でもある。先述したように、僕は自分の録音物を聴き返すのが好きだからだ。

秋から冬にかけては、山本君と大福のダビングの追加や、新たに気になってきたベーシック部分の再録音・差し替えなどもした。(暮れには「もうすぐ新しいアルバムが出せそうだ」と思い3人でアー写を録ったりしたが、実際にリリースまで漕ぎ着けたのはこの日から1年以上後になるのだった…)

そんななか、12月にはもう1人のゲストの音源が届いた。トゥラリカの横山匠くん。年明けから大西さん(同じくトゥラリカのメンバー)と作業を進めていたことは前にも書いたけれど、そのやりとりはこの頃まで続いていた。それと並行して匠くんにも年の初め頃からお願いをしていたのだけれど、お互いの都合などもありあまり具体的な話は進んでいなかった。というよりも、大西さんとの間ではかなり具体的なアレンジなどを相談していたものの、そもそも匠くんに対しては僕がもっと抽象度の高いお願い(「ここに何か入れて!」みたいな感じ)をしていたせいで、なかなか進めることができなかったのだ。当初はギター&モジュラーシンセで入ってもらえたら、と思っていたのだけれど、最終的にはモジュラーのみで参加してもらうことになった。そして特定の曲に加わってもらうというよりは、いくつか音の素材を送ってもらい、それを僕の方で編集するという形を採ることになった。そしてその素材が12月に到着したのだった。一度送ってもらった後に少しオーダーをして、計2回素材を送ってもらった。これらの素材をどうやって使うことになったか、ということについては別セクションで書くことになると思う。

年が明けて2018年。この年の制作に関する具体的な記憶というかトピックは、前年までに比べると少ない。人と関わっての作業は少なく、多分ほとんどの時間をずっとミックスに費やしていたと思う。仕事から帰って寝るまでずっとミックス、休日はずっとミックス。やっていない時も常に「やらなきゃ」という宿題感が頭の中にあるような状態だった。でもやることはハッキリしているので、これはこれで悪くなかった。ちなみに相変わらずライヴは殆どやっていなかったけど、2016年9月に大福とデュオで演奏して以降、2017年は1本もなし。2018年は6月と11月に演奏する機会があった。6月は西脇一弘さんが企画してくれたイベントだった。2018年の2つのライヴはどちらも僕と山本君のデュオに加え、サポートで拓海さんに参加してもらった。相変わらずメンバー3人揃ってのライヴはなし。

2018年の2月と3月に、最後となる10人目のゲストの素材が届いた。HASAMI groupの青木龍一郎くん。青木くんにも2017年の中頃からオファーをしていたのだけれど、僕が「この曲に適当にノイズを入れてほしい」などといった無茶なお願いをしていたためなかなか進まず、最終的に詩で参加をしてもらうことになった。そして素材となる素晴らしい詩が2回に渡って届いた。これらを吟味し、アルバムの中にどのように組み込むかを何となく考えていく。少し時間が経ってしまったが、夏ごろ、しゃしくえの2人と青木くんにこの詩を朗読してもらい、録音をした。

匠くんと青木くんの参加は、他のゲストの「スタジオに来て演奏してもらい、それを録音させてもらう」というある意味わかりやすい作業よりは、自分の無茶振りのせいもあって、落とし所を探すのにやや難航したといえる。でも結果的に、この2人からもらった素材はアルバムの中で新しいトラックを生み出すことになり、絶対に欠かすことのできないものになった。

この年の夏、シンガーソングライターの53235(五味文子)さんのサポート演奏をさせてもらったことをきっかけにして、アーティスト / エンジニアの大城真さんと知り合った。五味さんのリハをしに大城さんの自宅スタジオに伺った時、ミックスについて色々なことを教えてもらった。そしてそれを参考にして、いくつかのプラグインを新しく導入した。このとき導入したプラグインは特にマニアックなものでもなく、昔からある定番のようなもの。ただ恥ずかしながら自分はそれまで有料のプラグインを使ったことがあまりなく、こんなに作業が捗るのかと驚いた。これによって夏から冬にかけて、ミックスはどんどん進むようになった。

その頃から、順調に、と言って良いのかは分からないけれど、ワケの分からない作品はその全体像をだんだんと露わにし始めていた。なんとなくの目処が立った年末頃、1stも手がけてくださったデザイナーの宮さんに連絡をし、再びデザインをお願いした。同時に流通のためにディストリビューターのブリッジ社、マスタリングをお願いするために大城さんに連絡をし、3月のリリースに向けて調整を始めた。そういえば当初、早くリリースしてしまいたくて2015年に1stのレコ発を行なった1月31日という日を発売日にしようかとも思ったのだけど、もちろん直近すぎて間に合わなかった。そこで2015年にレコーディングを始めた3月31日という日付けに設定することを思いついたのだけど、意味合いとしてもこの日にして良かったと思う。ほとんどどうでも良いことだよなとは思いつつ、こういった些細な数字に対するこだわりを自分は捨てきれない。それはアルバムの収録時間を39分00秒ちょうどに設定したことにも反映されているのだけれど、また別のセクションで書きたいと思う。

2019年の年明けからミックスとマスタリングの最終調整、デザインの仕上げを詰めていった。職場で徹夜しながらCDの組み立て作業をやったりしつつ、初回の出荷の〆切ギリギリに何とか間に合い、アルバムは3月31日に無事発売された。

いくつかの店舗では試聴機で取り上げてくれたり、前述の「象の小規模なラジオ」が番組でゲストに呼んで紹介してくれたり、いがらしみきお先生と西脇一弘さんをはじめ、尊敬するアーティストの方々がコメントを寄せてくださったりした。が、アルバムはほとんど売れなかった。CDはまだ残っているし、これからも地道に売っていくつもりだけど、1年経ってあまり売れていない作品のことを「売れなかったアルバム」と完了形で呼ぶのは、いま当たり前のことになっていると思う。なんだかな、と思う。

とりあえず最初のセクションとして、アルバム制作に入ってから発売に至るまでの具体的な作業工程を書いてみた。

ここまで書いたことで言いたかったのは、何だろう? と自分でも思う。最初にも書いたように、基本的には将来の自分のための単なる備忘録。それとは別に何か意味づけのようなものをするとすれば……音楽を作るということは、いつの時代も、機材やテクノロジー、あるいは周りにいる人などによってかなり左右されるのではないだろうか、ということだ。というより、音楽というものはほぼそれだけによって成り立っているのではないか、とさえ自分には思える。ペンのみで完璧な楽譜を完成させる作曲家や、楽器1つで聴衆を魅了する演奏家。あるいは誰も聴いたことのないような歌詞やメロディを生み出してしまうシンガーソングライターや、パソコン1台でどんな音楽でも作れてしまうクリエイター。こういった人たちに触れると、1人の人間に中に恐ろしいほどの技術や才能が詰まっているように感じる。実際それはそうなのだが、そこで用いられている力は、それぞれの時代にたまたま傍らに存在した機材やテクノロジー、そしてそれを生み出した先人たちの存在にほぼ100%依拠しているともいえる。その点においては、自分のデタラメな制作と全く変わらない。ともいえるだろう。そんな風にして堂々と言い切る自信もないけれど。

そのような意味で、僕は自分の時代における機材やテクノロジー、そして周囲の人々とどのように関わってこのアルバムを作ったのかを記録しておきたかったのかもしれない。

それと、大義名分を掲げるような形になってしまうのであまり書きたくない気もするのだけれど、膨大な量の情報があまりにも軽々と流れ去ってしまうこの時代、そして言葉や過去の出来事があまりにも蔑ろに扱われている現在の世界の状況に対して、自分はこのような鰻の寝床じみた文章や音楽で抵抗したいという気持ちが、少なからずある。しかしそれと同時に、この10年あまり自分が保ってきたこのような姿勢が「抵抗」として本当に有意義なものだったのかと考えると、即答できない部分も少なからずある。

Section2につづく

2020年5月9日 27:29:55