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『キラリティ』全曲の紹介ページです。主に各曲の構想や録音などについて田中が書きました。
少し長くなってしまった(全部読むと3万字)ので、興味のある曲だけ、とか、つまみ食い的に読んでもらっても良いかも知れません。
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「アーティスト自身による作品解説」というと、そこに書かれている内容がその作品の全て、あるいは「正解」のようなものであると捉えられることも多いと思います。自分自身の考えとしては「音楽そのものに触れた時にその人がどのように感じるか」ということが「その音楽」の全てだと基本的には思っており、「この文章を読んだ上で作品をより深く『理解』してほしい」という風に思っているわけではありません。むしろ音楽や作品のもつイメージが、受け手に渡ることで作者の思いもよらなかったようなものに膨らんでいくことが自分は好きで、『キラリティ』もそうやって色んな人の中で広がっていくようなことがあったら嬉しいなと思っています(さらに言えば、そのようにして作者にも把握できないような様々な広がりや深さが生まれるという出来事は、音楽に限らず芸術や作品というものが本質的に持つ価値の1つなのではないかと思っています)。
ただそれと同時に、「謎多き作品に対する作者自身の言葉」のようなものを読んで「へーそんな背景のある作品だったのか」と納得したり発見したりするのも自分は好きで…。作品を「理解」するための「解説」、という大仰なものとしてではなく、そんな風な軽めの塩梅で興味を持って読んでくれる人がいたら良いな、と思って載せることにしました。作者自身から観た作品のコラムというか、制作日記のようなものとでも思って頂ければ幸いです。以下の内容が『キラリティ』の正体というわけではありません。「正体の一部」ではあるかも知れませんが、。あとは自分の備忘録として書き残しておくことにしました。
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*各ディスクについて
『キラリティ』は2枚組のアルバムで、disc1には『窓』、disc2には『あなたの海にあらまほしき風』というサブタイトルが付いています。outlineのページにも書いたのですが、『キラリティ』というタイトルは「掌性(キラリティ)」という概念に基づいて付けたものです。鏡に写すと重なり合うもの、似て非なるものだけれど2つで1組を成すもの、対称の形や性質をもったもの…たとえば朝と夜、天国と地獄、過去と未来、男と女、などなど。いくらでもあると思いますが、そういったものを幅広く指しています。あとは単純に「キラリティ」という語感が好きだったのと、我々がこのアルバムで作った音楽には際立った華やかさや革新性のようなものはそれほど無いかも知れないけれど、ところどころキラリと輝くところがあるのではないか、というような謙虚なアピールも多少念頭においた部分があります。
ちなみに…『キラリティ』という言葉は僕の中から出てきたものでなければ、しゃしくえのメンバーから出てきたものでもありません。「しゃしくえ」というバンド名の名付け親、というか「しゃしくえ」という言葉そのものを思い付いた人物である僕の幼馴染み、亀井君から教えてもらった言葉です(「しゃしくえ」という言葉の由来はこちらのブログに亀井君本人によって詳しく書かれています)。亀井君は化学の専門家で、「キラルな化合物(=キラリティを持った状態にある化合物)」という、大変興味深くかつあらゆる分野に応用が可能な非常に有益な対象を研究しています。2013年の秋、レコーディングが終わった頃、アルバムのタイトルやコンセプトをどうするか考えているんだ、というような話を夜の公園で亀井君にしたところ、彼が突然この「キラルな化合物」の話を始めたのです。凄く面白い話だったので家に帰って自分でもインターネット検索をしてそこから「キラリティ」という言葉を知り、すぐにこれをタイトルに決めたのでした。だから「しゃしくえ」も「キラリティ」も、いわば「亀井君の言葉」なのです。亀井君は幼い頃から、僕にとって言葉の専門家でもあり、多義的な意味での名付け親でもあります。
このタイトルのコンセプトが最も如実に表れているのは、2枚のCDが1組になっている、という点です。
disc1『窓』は「生」あるいは「今あるもの」、それに対しdisc2『あなたの海にあらまほしき風』は「死」あるいは「もうないもの」。端的に(大雑把に)書くと各ディスクは大体そういったテーマを意識しており、それに沿って曲を配置してあります。
ちなみに上にも少し書いたように、『キラリティ』というタイトルも99分59秒という収録時間(50分ずつに綺麗に割り切れる「100分」から1秒欠けることによって非対称的になっている)も、各ディスクのテーマも、完全に後付けです。アルバム全体の構成は、全18曲を録音し終えたあとに考えて生まれたものです。でも各ディスクへの曲の振分けや順番に関しては、トータルのコンセプトを思い付いた後は迷ったりすることは殆どなく、パズルのピースを合わせるようにスムーズにアルバムを組み立てることができたので、行き当たりばったりなようでいて、実はやはり何かに導かれて制作を行なっていたんだと思っています(大げさな言い方ですが、。)。

 

まずはdisc1の『窓』というタイトルについて。これにもいくつかの由来があります。1つには単純に部屋や建物に付いている「窓」を指したものです。朝起きて最初に空気を入れ替えるために開けるもの、建物の内外の境界にある(建物の側に属しているが外に繋がってもいる)もの、風景を切り取るもの、机に座っている時に眼前に広がっている「風景」そのもの……などなど、建物に付いている「窓」(最も具象的な「窓」)について考えるだけでも、その概念は多方面に広がっていくと思います。
もう1つの由来は少しだけ抽象的な話になるのですが、人が何かを観たり考えたりする時の「思考の枠組」のようなものを「窓」という名前で呼んでみた、というようなものです。
例えば目の前に「赤いリンゴ」があって、自分とその隣にいる誰かがそれを見て共に「赤いね」と言ったとしても、2人には本当に「同じ色」が見えているのか。同じ「系統」の色を「赤」と呼んでいたとしても、自分には「真っ赤」に見えているリンゴが隣人には「オレンジ色に近い赤」に見えているかも知れないわけです。あるいはもっと極端に、僕がずっと「青」と呼んできた色のことを隣人は昔から「赤」と呼んでおり、尚かつその隣人には眼前のリンゴの色が「僕が『青』と呼んでいる」色に見えており、故に彼はそれを「赤」という言葉で呼んでいる、しかし誰もその入れ違いには気付かない、というケースもあるかも知れない。こういった事態が起きていたとしても、それを検証する手立ては今の人間にはない。普段生活している中では、周囲の人たちと自分は「同じ世界」を共有している、と考えるのが当たり前でしょうが、「見えている世界の度合い」や、あるいはもしかしたらもっと根本的な「世界の見方」そのものが、自分と隣人とでは全く異なっている可能性は常に否定することが出来ない。現実に、国や文化が違えばそれに近いことはいくらでも簡単に見て取れるでしょう。(よくある話というか、もしかしたらもはや少し古臭いぐらいの物の考え方かもしれませんが…)
そういった方向から原理づけて「自分に見えている世界は誰とも共有できない」と考える時に、決して交わることのないそれぞれの思考の枠組のことを自分は「窓」と呼ぶことにしています。たくさんの窓がバラバラな暗闇に向かって開いているようなイメージです。
少し脱線しますが、完全な「無音」というものは自然界の中には存在せず、デジタル・レコーディング技術が定義づけた「無音という状態」によって、つまりは人間の手によって、初めて「無音」はこの世に実現した、というような話があります。それと同様に、完全な「闇」というものは自然界には存在せず、決して交わることのない人と人の思考の枠組の間の断絶、つまり「窓」と「窓」の間だけに存在するのではないか、と自分は思うことがあります。誰にも検証することのできない「窓」と「窓」の間の差異こそが、誰が覗いても何も見えない、完全な「無」=「闇」なのではないか、と。
あるいは、「記憶」というものも、「ある1つの出来事」を誰かの「窓」を通して切り取った、1枚の絵のようなものでしょう。その絵を形成するためには、「ある1つの出来事」全体の中から捨象されたもの、入りきらなかった・忘れられたものが必ずあるはずです。でも人間はそうやって何かを切り取ることでしか「記憶」を作ることが出来ない。そう考えると、1つの「窓」によって切り取られる「記憶」の額縁の外側にも、誰が覗いても何も見えない、完全な「闇」が広がっている気がします。
ここで挙げた「無音」や「闇」は、あくまで人間(あるいは僕)にとってのものです。動物や植物、あるいは星や宇宙にとっては全く異なる、想像もできない「無」があるのかもしれない。でも、人間にとっての「無」は上記のように人間の手によって初めて生まれるものであるという気がしています。
こんな「窓」にまつわる色んな妄想が、disc1のタイトルが持つメインテーマかもしれません。あまりに巨大なテーマで、自分の作品が十全に表現できるとはとても思っていませんが、思い切って付けた名前でもあります。
それから、「無」や「闇」というとやはり暗いイメージが先行してしまいますが、本当に何も無い状態、良さも悪さも、暗さも明るさも、何も存在しない超越的にフラットな状態、というようなニュアンスで自分は「無」というものを捉えています。
また冒頭に、disc1の大雑把なテーマは「生」あるいは「今あるもの」、と書きました。「無」や「闇」というとそれとは真逆なのではないか、と思われるかもしれませんが、人間が生きることによって初めてたくさんの「窓」が生まれる、そして「今ここに何かがある」ということを認識すること(=窓があるということ)によって初めて、それらの断絶の中にだけ「本当に何もない」という状態が生まれる、という考えに基づいたテーマが「窓」というタイトルには込められています。
そういった考え方をより現実的な視点に持ち込むと、生きている人間が触れる掛け替えのない喜びや逃れられない葛藤、人が人と出会うことによって初めて生まれる素晴らしい共鳴やどうしようもない軋轢、といったものも、disc1の『窓』というタイトルに込められたテーマの1つであるといえるかもしれません。
以上が『窓』というタイトルの大要なのですが、オマケに2つ、自分の中に強く残っている「窓」という言葉を2つ紹介したいと思います。もちろんこれらの「窓」も、キラリティに『窓』の名前を付ける際に念頭にあったものです。
1つはもうそのままなのですが、小川美潮さんの『』という曲です。ファンの間ではとても有名な曲だと思いますし、外側から何か言葉を加えることが憚られるような孤高の名曲だと思うのですが。。。多くの聴き手の心の中に大いなる時間や人々の歴史のうねりを感じさせるこの曲の、そのいわば中央部分に極めて象徴的に現れる「やがて幼い掌で窓がまた開かれる」という歌詞。他にもこの曲の中には「窓」という言葉がいくつか出てくるのですが、この曲に現れる「窓」こそが僕の知っている「窓」を表現した作品の中で最も偉大なもので、、ここまでのものが自分に創れるという気は全くしないのですが、密かなオマージュというか、敬愛を込めて同じタイトルをつけた部分があります。
もう1つは、やはり同じく尊敬する大好きなギタリスト・画家、SAKANAの西脇さんの言葉です。2011年の暮れ頃、西脇さんとお話しする機会があった際に、「田中君の作品を見てると、窓から外を見ているような感じがするんだよね。たとえば部屋の中から窓の外を見ていてそこに庭があるとするでしょ。で、そこが庭だと思っているんだけど、もしかしたらその向こうの今見えていないところには壁が立っていて、実は庭だと思っていた場所もまだ部屋の中だった、ってこともあるかも知れないじゃない?そんな感じ」という言葉を頂いたことがあります。
実を言うと、西脇さんのこの言葉に本当はどういう意味が込められているのか、未だに僕には全てが分かっていない気がしています。でもこの言葉は自分にとって涙が出るほど嬉しかったもので、ずっと心に残っています。なぜなら、このような感覚は、僕が西脇さんの作品や演奏に接して来た中でずっと感じてきたものの1つでもあったからです。「窓から外を見ること」「そこに庭があること」そして「庭の向こうに壁が立っていること」…西脇さんの作品や演奏にあるそういった感覚の全てが自分には何よりも「奇妙」であり「美しい」ものに思えますが、でも「それが何なのか」ははっきりとは分かりません。僕はそんな魅力を西脇さんにずっと感じてきました。それを自分の作品の中で表現しようと思ったようなことは殆ど無いのですが、でも分からないなりにその「何か」を何となく掴めていることが判った気がして、この西脇さんの言葉はとても嬉しかったのです。ずっと大事にしている、自分の人生の宝のような言葉の1つです。
『窓』についての記述が少し長くなってしまいましたが、それに比べるとdisc2の『あなたの海にあらまほしき風』というタイトルはそれほど入り組んだものではない気がします。
「あらまほし」という言葉は古語で、「そうあってほしい」「そうありたい」という2つの意味を持ちます。「あなたの海」はあなたの心・精神や記憶の中だったりあるいは思考や身体だったり…色々な解釈が出来ると思いますが、そこに「吹いていてほしい風(理想的な風)」そして「(自分自身が)吹く風になりたい」、という2つの意味を込めました。
disc1の大きなテーマは「生・今あるもの」、disc2は「死・もうないもの」だと書きました。「あらまほしき、理想的な風」が「海」に吹くためには、『窓』のような複雑に入り組んだ世界で長い時間を過ごした上でそこから脱出しなければならない、それはつまり「死」によってしか到達できない世界なのではないか、というような考え方をしました。こう書くと「死によって初めて救いがもたらされる」という意味に読めてしまうかと思いますが…この「死」は必ずしも「肉体的な死」や「精神的な絶望」のようなものを指すわけではありません。
例えば、10年前、20年前の自分は、今の自分には全く想像もできない行動や考え方をしていた、ということはよくあるでしょうし、時には1年前や1週間前、1日前であってもそういうことはあるかもしれません。「何であの時自分はあんな風なことをしたんだろう」と。それは必ずしも「その頃よりも成長できた」「過去を精算できた」という状態であるとは限りません。でもふとした瞬間に気付く、もう完全に訣別してしまった過去や自分、もうどこにもないもの、つまりは「1つの死」がそこにはあって、他の何者でもない、何にも縛られることのない、本当に純粋なただの「風」はその場所にだけ吹いているのではないか…というようなイメージです。着の身着のまま、着ていることを忘れるような古く軽い服だけを纏って、誰もいない海岸を歩きながらそんな風を受けているあなたはきっと良い心地だろう、というような願いというか祈りのようなものを込めたタイトルです。

 

このようにして、『窓』と『風』は正反対/対称のものでもあり、通底しているものでもあり、1つのものの2つの側面であるともいえるでしょう。この2つが合わせ鏡のように組み合わされている、という状態が『キラリティ』というアルバムの中心にあるコンセプトだと思っています。「窓」は「風」が部屋にやってくるための入口であるとともに、「風」が新たな「窓」に旅立つための出口でもあります。
入り組んだ深遠な世界をイメージした重厚な『窓』と、静かな夏の夜にそっと住み慣れた部屋に入ってくる心地良い風(もちろん窓を通じて)をイメージしたささやかな『あなたの海にあらまほしき風』、そんな対比を意識して2つのタイトルを付けました。字面では後者の方が大それたタイトルに見えるかも知れませんが。
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そんなわけで、ディスクタイトルのについての紹介が少し長くなってしまいましたが、以下のページにあるのが『キラリティ』の18曲それぞれについての紹介です。

窓

風

 

 

*尚、上記ページの文中に登場する人名ですが、
「僕」「自分」:田中耕太郎(ギター/ベース/ヴォーカル/コラージュ/録音全般)
「山本さん」:山本眞奈美(ドラム/ヴォーカル&ギター)
「山本君」:山本明尚(ピアノ/シンセサイザー/コーラス)
「大福さん」:大福(ヴァイオリン/ヴォーカル/コーラス)
という表記になっています。
 

 

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